家老
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/16 07:33 UTC 版)
家老制の弊害
2人から数人程度の家老が合議制で藩政にあたるわけであるが、政治改革や世継ぎ問題に絡んで派閥抗争が起きることが多かった。このような抗争が「お家騒動」の元凶となり、最悪の場合は改易にまで至ることがあった。
特に、藩政改革のために取り立てられて藩主の信認を背景として独裁的に改革を推進しようとする家老や年寄・奉行と、保守的な重臣、一族の意見を代表する門閥家老との対立は定番と言える光景で、藩論を二分して血で血を洗う抗争につながったり、改革派家老の失脚とともに藩主が隠居に追い込まれるなどの政争も見られた。
また、徳川家斉治世中(大御所時代)、御三家の付家老は自身らの独立のために将軍の子女を藩主や藩主正室にするように画策し、藩内対立や、将軍の子女を迎えることによる藩財政悪化を引き起こしている。また、幕府においては側用人が大老格や老中格になると、本職の大老や老中と同様の格式と加判の特権を持ちながら側用人の業務を行うので、老中に対抗できる権勢を有することになる。こういった人物として柳沢吉保や田沼意次、水野忠成が著名で、彼らは幕府権臣としても著名である。
家老の特権と義務
家老は、主君のための責任要員的な性格があったとの指摘もある。例えば、将軍同様に老中の通称と陪臣にあたる諸藩家臣の通称が被った場合、諸藩の家臣は通称変更を余儀なくされる場合もあった。また、家老が自分の屋敷とは別に下屋敷を有する場合もあり、基本的に防衛施設である城の近くに屋敷を構えていた。この他、通常の家臣には許可されない輿に乗る権利を許可されることも多い。
反面、主君の身代わりに藩政の実務最高責任者として責任を取ることもあった。最悪の場合は切腹や斬首の上に家格降格や家名断絶を受ける形で、その責めを全うすることもあった。戊辰戦争に敗れた東北諸藩でも、家老が全責任を被って処罰を受けた代わりに藩主への処罰が軽くされるということが見られる。
徳川家における家老
徳川家ではこれに当たる役職を老中と呼んでいた。江戸幕府開府後も、幕閣最高位の役職としてこの名を踏襲した。また、臨時の役職として老中の上に大老が置かれた。ちなみに徳川氏がまだ三河国の一地方大名であった時代は、酒井家が家老(老中)連綿の家柄であった。また、石川数正が家康の信任を得てこの職に昇進した。
- ^ 上田萬年、松井簡治 1915, p. 964.
- ^ 塙保己一, pp. 136-142 (0015.jp2-0018.jp2), 「第十四冊職名部六下」.
- ^ 藤原長房 (雀庵) 1910, pp. 58-.
- ^ 塙保己一, p. 126-, 「第十三冊職名部六中」.
- ^ 国立国会図書館 2007, p. 129.
- ^ 塙保己一, pp. 136-, 「第十四冊職名部六下」.
- ^ JapanKnowledge. “【家宰】かさい (新選漢和辞典Web版)”. 国立国会図書館. 2021年5月21日閲覧。
- ^ ウィキソース s:藩制
- ^ 男爵#男爵家の一覧の「旧大藩の藩主一門および家老家」「叙爵されなかった旧万石以上陪臣家(注釈)」に、明治維新時点で知行1万石以上の家老が列挙されている。
- ^ 近世の地方制度熊本市
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