宮津祭 芸屋台・万歳鉾

宮津祭

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/05 22:58 UTC 版)

芸屋台・万歳鉾

2008年に巡行した万歳鉾。山王宮の鳥居前で子供歌舞伎の奉納を行っている。

曳山のことを宮津では屋台と呼んでいる。万歳鉾は宮津祭(山王祭)の曳山のなかで唯一現在も巡幸している芸屋台である。

江戸時代の宮津祭(山王祭)では神輿巡幸と浮太鼓を漁師町が担当し、神楽を山王下(宮町)が、そしてそれ以外の町内が「屋台巡行」を執り行っていた。各町はご神体を乗せた「山屋台」と子供歌舞伎を演じる「芸屋台」との2台を所有し、その2台をセットにして山の名が付けられていた。寛政元年(1789年)の「山王祭礼行列覚」では、行列順に「鈴鹿山」(本町)・「三輪山」(本町)・「春日山」(魚屋町)・「高砂山」(魚屋町)・「稲荷山」(万町)・「天神山」(万町)・「万歳鉾」(職人町)[5]・「岩戸山」(白柏町)・「日吉山」(白柏町)・「紅葉山」(河原町)・「蛭子山」(葛屋町)[6]・「住吉山」(猟師町)・「明神山」(川向町)の記述が見られる。実に26基の山・芸屋台を繰り出していたわけである。そうした賑やかな曳山の祭礼の姿は、その後の天保12年(1841年)の宮津祭(山王祭)を描いた「山王祭礼図絵馬」(宮津市指定文化財)にも残されている。また、絵馬の中の各々の芸屋台で子供歌舞伎が演じられている描写の一部は近年宮津市により複製として復元され、みやづ歴史の館に展示されている。その後、1町に2基ある屋台は1基に統合されてその名を変え、また山屋台は姿を消し芸屋台だけが「山」の名を残したまま伝えられて来た。現在、宮津祭当日に白柏会館には2体の猿の人形が展示されるが、それが白柏町がかつて巡行させていた日吉山の山屋台のご神体である。

万歳鉾は他の屋台が「山」と呼ばれる中で、唯一「鉾」の名を冠する屋台である。山王祭礼図では他町の山屋台が上部にご神体を乗せただけの屋台であるのに対し、万歳鉾だけがその上に高く聳える鉾を持った姿で描かれている。「相楽山」(白柏町・岩戸山と日吉山が統合)、「相生山」(魚屋町・春日山と高砂山が統合)など、今日も芸屋台は宮津の町内にその幾つかが保存されているが、万歳鉾は当初から変わることなくその名が伝わる山王祭礼の貴重な屋台であると言える。また、現在でも不定期ながら巡行を行い子供歌舞伎を演じているのは宮本町の万歳鉾だけである。直近では2008年(平成20年)の宮津祭に登場し、子供歌舞伎「仮名手本忠臣蔵 道行旅路の花婿」を演じている。


  1. ^ 宮津城下で唯一の式内社である杉末神社境内に平安期に勧請されたとされる。江戸時代宮津藩主の崇敬を受けて山王宮が宮津守護神となり、杉末神社はその摂社となった。
  2. ^ 西祭は相撲祭、甘酒祭とも呼ばれた。奉納相撲や幼児の「初土俵入」が行われ、今日に続いている。
  3. ^ 画家・佐藤正持により天保13年(1842年)に完成し、山王宮日吉神社に奉納されている。現在、絵馬は絵の具の剥落防止のために拝殿上部の木箱に入れられている。絵馬には別に下絵が残されており、併せて宮津市の文化財に指定されている。
  4. ^ 波路など漁師町以外は、現在も太鼓と呼ばれ浮太鼓とは区別されている。
  5. ^ 職人町とは現在の宮本町の西側の町名であり、東側を田町、紺屋町といった。
  6. ^ 葛屋町は現在の蛭子町のことであり、この町名の由来となったのが芸屋台・蛭子山である。


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