夏 (五胡十六国) 歴史

夏 (五胡十六国)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 10:20 UTC 版)

歴史

起源

夏の支配氏族は匈奴鉄弗部の劉氏(後の赫連氏)で、南匈奴屠各種に属する谷蠡王の劉尸利(独孤部の首長の劉進伯の子[1])を祖として、後漢末の南匈奴の単于一門で攣鞮部を継いだ羌渠前趙の始祖となる)の弟である右賢王去卑を始祖とする(末弟劉猛独孤部、一族の潘六奚は破六韓部の始祖となる)。去卑は、献帝長安脱出に功績があったため、曹操の信任を受けて南匈奴諸部を監督した。

鉄弗部時代

310年、去卑の孫の劉虎鮮卑拓跋部に敗れてオルドスへ逃れ、以降ここに割拠し、前趙・後趙前秦から官を受けた。

劉虎の孫の劉衛辰が族長になると、再び鮮卑拓跋部に敗れ、劉衛辰は部を率いて前秦領内へ逃れた。376年、劉衛辰は前秦の拓跋部討伐に従って功績を立て、同年、オルドスに戻って拓跋部・柔然を服属させ、一大勢力を形成した。

386年、拓跋部が再興(後の北魏)すると劉衛辰はこれに勝てず、391年には北魏の遠征軍によって殺され、鉄弗部は一時滅んだ。劉衛辰の子の劉勃勃(後の赫連勃勃)はオルドス西南部の高平まで逃れたが、その後も北魏は追討軍を繰り出したため、流転の末に後秦へ身を寄せた。後秦は北魏に備えるため、勃勃をオルドスに鎮した。

夏の建国

407年、劉勃勃は旧鉄弗部や鮮卑諸部を糾合すると、後秦から自立して大単于・大夏天王と称し、龍昇と建元して大夏国を建てた。同年、夏はオルドス全域を平定し、413年には赫連氏改姓や統万城の築城など、着々と勢力を固めていった。また北魏に対しても、414年北燕と盟を結んで牽制し、同年から翌年にかけて山西一帯を攻撃して優勢に立った。

417年、関中の後秦が東晋劉裕によって滅ぼされると、418年に夏軍は南下して東晋を破り、長安など関中諸城を占領した。同年、赫連勃勃は帝位に即き、翌419年真興と改元し、統万城を都に定めて帰還した。夏の領域は、関中・オルドス・山西南部に及び、吐谷渾北涼を服属させ、華北西部に大勢力を築いた。

衰退

424年、長安で反乱が起こって内乱状態となり、425年に赫連勃勃が死去すると、夏の勢力は急速に衰退した。426年、夏は2路より5万の兵を進めて西秦を攻め、都の枹罕を陥して西平まで達したが、北魏はこの機に乗じて夏へ第1次遠征軍を送り、関中諸城を占領した。427年、北魏は夏へ第二次遠征軍を送り、都の統万城を占領した。二代皇帝赫連昌は統万城から脱出し、上邽を都に定めて抗戦したが、各地で北魏に敗れて政権は瓦解した。428年、夏帝赫連昌は北魏に捕らえられた。

428年、赫連昌の弟の赫連定は逃亡先の平涼で大夏皇帝に即位し、同年、各地の敗残兵を糾合すると、北魏から関中全域及び統万城を除くオルドス諸城を奪回した。430年南朝と同盟が成立し、赫連定は統万城奪回に向かったが、北魏は夏へ第三次遠征軍を送り、ついに夏都平涼も陥落した。夏は瓦解し、赫連定は敗残兵を率いて上邽へ逃れた。

滅亡

431年1月、夏主赫連定は再起を図るため西へ進み、南安の西秦を攻めてこれを滅ぼし、ついで全軍を率いて北涼遠征を行った。6月、夏軍が黄河を渡る途中、服属していた吐谷渾軍に襲われて壊滅し、赫連定も捕らえられて大夏政権は滅亡した。なお、第3代皇帝赫連定は432年、第2代皇帝赫連昌は434年に北魏によって殺された。


  1. ^ 新唐書』宰相世系表


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