夏 (五胡十六国)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 10:20 UTC 版)
夏の文物
現存する夏の文物としては、統万城遺址・代来城遺址・太夏真興銭(419年-)・田焽墓誌(420年)・大夏石馬(424年)・施文造像(429年)・紀年文書として敦煌・トルファン文書数点がある。また、現存はしないものの、大夏龍雀刀(413年)や統万城南碑頌(419年)などが知られている。
夏の名臣
- 叱干阿利
- 鮮卑叱干部族長の一族。劉衛辰が北魏に滅ぼされた時、族長であった太悉伏を説得して遺児の劉勃勃(後の赫連勃勃)を匿った。この事が発覚すると叱干部は北魏によって滅ぼされたが、阿利は余衆を率いて勃勃に投じ、407年に夏が建国すると御史大夫・梁公に拝された。413年、将作大匠を拝され統万城を築いた。統万城は中国の城郭建築史上初めて馬面を施したもので、城壁もセメントで固められ、北宋時代(11世紀)でも金属で叩くと火花が散るほどの強度を保っていたという。
- 烏洛孤
- 夏の御史中丞で外交を担当。414年に遼西の北燕、415年に河西の北涼へ赴き、これらと盟を結んで夏の覇権を形成した。
- 王買徳
- 赫連勃勃の軍師。もともと後秦の参軍であったが、赫連勃勃に投じると重用され、多くの戦いで作戦を立案した。特に418年の関中平定戦には王買徳に依拠するところが大きかったという。同年、功によって都官尚書・冠軍将軍・河陽侯に拝された。
- 赫連韋伐
- 赫連勃勃の弟で、夏の車騎大将軍・北平公。西征軍を担当。426年、北涼の要請で征南大将軍呼盧古と共に西秦を攻め、苑川(西秦の旧都)・南安(西秦の秦州治所)・枹罕(西秦の都)・西平(西秦の沙州)を陥した。431年1月、韋伐は夏の敗残兵を糾合して再び西秦を攻め、都の南安を陥し西秦を滅ぼした。
- 赫連那勿黎
- 赫連勃勃の子で、夏の七兵尚書。431年に夏が滅びると、姓を赫連氏から口豆連氏(後の雲氏)と改めて北魏に降り、北部莫弗となって夏の遺民を率いた。
夏の君主
鉄弗部時代
- 去卑(族長位2世紀末頃 - 3世紀前半頃)
- 誥升爰(族長位251年 - 309年)大夏建国後に元皇帝
- 劉虎(族長位309年 - 351年)大夏建国後に景皇帝
- 劉務桓(族長位351年 - 356年)大夏建国後に宣皇帝
- 劉閼頭(族長位356年 - 358年)
- 劉悉勿祈(族長位358年 - 359年)
- 劉衛辰(族長位359年 - 391年)大夏建国後に太祖桓皇帝
夏
- 夏 (五胡十六国)のページへのリンク