呉 (三国)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/17 06:35 UTC 版)
呉の政治
呉は、揚州の非漢民族である山越を何度も討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士としての資質の高い者を大量に徴兵した。
魏の鄧艾は「呉の名家・豪族はみな私兵を所有し、軍勢・勢力を頼れば、独立できる力を持っている」と述べている。
川勝義雄は「呉の将軍は親子兄弟間で兵の世襲が認められていた。この制度は世兵制と呼ばれている。呉の将軍達は世襲を許された私兵的な屯田軍を持ち、未開発地域で厳しい軍政支配を行っていた。屯田軍は土地開発(開拓)の尖兵であった」としている。
また、官吏のトップに着いた者達については
呉の経済
呉の税制については様々な議論があるが、戦乱からの再建の中で布帛納の戸調制に切り替えた魏や北伐を行うための財政制度の構築を目指した蜀と異なり、戦乱の影響が少なく、銅山などを抱えていた呉は後漢の税制(銭納の重視)や貨幣経済の影響を一番強く残していたとみられている[1]。
呉の皇帝の孫権は236年に五銖銭500枚、238年に五銖銭1000枚の価値を持つ貨幣を発行し、貨幣経済の充実に努めた。呉の貨幣は晋に降伏した後も用いられたらしく、東晋では呉の貨幣が流通して魏や晋の貨幣と混用されて五銖銭1枚の価値をもって流通していた(『晋書』食貨志)[2][3]。
呉の研究
20世紀に入り、呉に関連した考古学上の発見が相次いだ。1984年に南京市近郊の馬鞍山で発見された呉の将軍朱然の墓や、1996年に長沙市で発見された10万枚以上の簡牘(走馬楼呉簡)などにより、呉の文化や地方政治について研究が続けられている。2006年には、呉の時代に作られたと見られる古墓が南京市で発見された。
歴代皇帝
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諡号 | 廟号 | 姓名 | 在位 | 元号 |
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大帝 | 太祖 | 孫権 | 222年 - 252年 |
黄武 222年 - 229年 黄龍 229年 - 231年 |
会稽王 (廃帝) |
- | 孫亮 | 252年 - 258年 | 建興 252年 - 253年 |
景帝 | - | 孫休 | 258年 - 264年 | 永安 258年 - 264年 |
末帝 | - | 孫晧 | 264年 - 280年 | 元興 264年 - 265年 甘露 265年 - 266年 |
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