勝姫 (天崇院)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/09/10 12:17 UTC 版)
人物
関ヶ原の戦いの翌年の慶長6年(1601年)、江戸城西の丸で誕生した。慶長16年(1611年)、従兄で越前国福井藩主の松平忠直(伯父・結城秀康の嫡男)と結婚する。元和元年(1615年)に光長、元和3年(1617年)に亀姫、元和4年(1618年)に鶴姫を生む。
しかしその後、夫・忠直は心を病み、元和8年(1622年)には勝姫を斬り殺そうとした。この時は、勝姫の侍女2人が身代わりとなって助かった。そして元和9年(1623年)、忠直は乱行のかどで秀忠から豊後国での隠居を命じられた。勝姫はこれに同行せず、江戸の高田屋敷に子供3人と共に移り住んだ。
勝姫は大変気の強い女性だったといわれ、勝姫の孫に当たる国姫(光長娘)の嫁ぎ先である福井藩の松平光通の後継者問題に光長と共に介入、結果、光通と国姫が共に自殺するという悲劇を招いた。
寛文12年(1672年)、江戸の屋敷で死去、享年72。墓所は東京都港区の西久保天徳寺。戒名は天崇院穏誉泰安豊寿大善女人。
息子の光長は越後高田藩主となり(ただし後に越後騒動で改易)、長女亀姫は高松宮好仁親王に嫁ぎ、次女鶴姫は九条道房[1]に嫁いだ。
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