内部マケドニア革命組織
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第二次世界大戦時
1941年、ブルガリアは枢軸国側にたって第二次世界大戦に参戦、連合国側であったユーゴスラビアが支配するヴァルダル・マケドニアに侵入した。ブルガリア軍はヴァルダル・マケドニア地域の多くの住民によって「解放」として歓迎され、かつての内部マケドニア革命組織の構成員たちはそれまでのヴァルダル・マケドニアの統治機構に替わって現地を統治するブルガリア人活動委員会の組織に関わった。一方、ユーゴスラビア共産党に加わっていたメトディ・シャトロフ(Методи Шаторов、Metodi Shatorov)などのかつての内部マケドニア革命組織(連合派)の構成員たちもまた、ユーゴスラビア共産党の方針に反し、ブルガリア軍を占領軍とみなすことには反対した[36]。彼らはマケドニアの地元の共産主義組織の活動家たちに、ブルガリア共産党に加入することを勧めた。しかし1943年にユーゴスラビア共産主義者同盟のパルチザンでモンテネグロ人のスヴェトザル・ヴクマノヴィッチ=テンポ(Светозар Вукмановић-Темпо、Svetozar Vukmanović-Tempo)がマケドニアに入り、反ブルガリア抵抗活動を活発化させた際、内部マケドニア革命組織(連合派)はその方針を放棄した。一方、かつての内部マケドニア革命組織の構成員たちはブルガリアによる統治機構を助け、スヴェトザル・ヴクマノヴィッチ=テンポ率いるパルチザン軍と戦った[37]。
内部マケドニア革命組織はまたギリシャ領マケドニア(エーゲ・マケドニア)における軍事組織の結成のためにも動き、ギリシャの王党派、共産主義派の武装勢力と対決した。かつての指導者であったミハイロフ、およびソフィア在住のマケドニア系移民の助力のもと、親ドイツ(枢軸国)的な武装勢力オフラナ(Uhrana)がギリシャ領カストリア、フロリナ、エデッサの各地区で組織された。これらの組織はギリシャ領マケドニア出身のブルガリアの当局関係者アンドン・カルチェフ、ゲオルギ・ディムチェフによって指揮されていた[38]。ミハイロフには、ドイツ支配下でマケドニア国家が建国されるだろうということを思い描いていたのは明白であろう。ミアイロフはまた、内部マケドニア革命組織の義勇軍が将来的な独立国マケドニアの中核となって、統治や教育をエーゲ・マケドニア地域(フロリナ、カストリア、エデッサ地区)において担うようになることを期待していた。
1944年8月2日(グレゴリオ暦の8月2日は聖エリヤの日(イリンデン)であり、マケドニア共和国ではイリンデン蜂起と関連して「第2のイリンデン」と呼ばれる)、セルビアの聖プロホル・プチニスキ(Prohor Pčinjski)修道院において、マケドニア人民解放反ファシスト会議(ASNOM)の初会合が開かれた。最初の演説を行ったのは、かつてのイリンデン蜂起の時の内部マケドニア革命組織の活動家で、後に内部マケドニア革命組織(連合派)に移った活動家パンコ・ブラシュナロフ(Панко Брашнаров、Panko Brashnarov)であった。このなかで、連合国に認められたチトーによる社会主義ユーゴスラビアの構成国としての、マケドニア国家の建国が初めて宣言された。このマケドニア人民解放反ファシスト会議はこの時以来、終戦により公式にユーゴスラビアの構成国としてのマケドニア社会主義共和国が成立するまでの間、マケドニア国家の代表権を持つものと見なされている。
ブルガリアの枢軸国からの離脱と対ドイツ宣戦布告の後、1944年9月にミハイロフはナチス・ドイツ占領下のスコピエに入った。ドイツ側が、ミハイロフがドイツと協力し、マケドニアに親ドイツ的なマケドニア国家を建設することを期待していた。しかし戦況はドイツの敗戦が濃厚と見たミハイロフは、これ以上の流血を回避するために、ドイツ側の要請を断った。ミハイロフはその後ローマに移り、マケドニア問題に関する多くの記事や本、資料を残し、1990年にローマで死去している[39]。
- ^ The Balkans. From Constantinople to Communism. Dennis P Hupchik, page 299
- ^ Britannica Online Encyclopedia - Internal Macedonian Revolutionary Organization (IMRO) [1]
- ^ Иван КАТАРЏИЕВ Archived 2008年1月2日, at the Wayback Machine.
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