内部マケドニア革命組織 第二次世界大戦後

内部マケドニア革命組織

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/27 08:09 UTC 版)

第二次世界大戦後

内部マケドニア革命組織(連合派)の構成員たちは、終戦後、チトーによって社会主義化されたユーゴスラビアの構成国としてのマケドニア社会主義共和国の建国に関わった。彼らの中の幾らかはそのまま政府に加わった。ディミタル・ヴラホフ(Димитър ВлаховDimitar Vlahov)、パンコ・ブラシュナロフ(Панко БрашнаровPanko Brashnarov)、パヴェル・シャテフ(Павел ШатевPavel Shatev)などがそうである(なお、パヴェル・シャテフは1903年のテッサロニキ爆破事件を引き起こした「ゲミジイ・サークル」の最後の生き残りであった)。しかし彼らはまもなく、ベオグラードの親セルビア的なユーゴスラビア共産党の中枢部によって政権内部から締め出された[40]。マケドニアの歴史家イヴァン・カタルジェフ(Иван КАТАРЏИЕВ、Ivan Katardjiev)によると[3]、これらの内部マケドニア革命組織(連合派)出身のマケドニア人活動家とブルガリア共産党は、決してその親ブルガリア的な姿勢を改めることなく、セルビア語で教育を受け実権を握ってきたユーゴスラビア共産党の指導者たちと多くの問題で衝突した。パヴェル・シャテフは、ベオグラードにある在ユーゴスラビアのブルガリア大使館に請願書を送り、ユーゴスラビア執行部の反ブルガリア政策とブルガリア語話者のセルビア化から保護してほしいと伝えていた[41]

手始めに、ユーゴスラビア共産党当局はマケドニアの共産主義者たちに対する頻繁な粛清と裁判を行い、また非党員のマケドニア人に対して当局に対する反抗を理由とした逮捕を繰り返した。多くの内部マケドニア革命組織左派の中枢部、たとえばパヴェル・シャテフやパンコ・ブラシュナロフなどは粛清され、その地位を失い、孤立化され、逮捕され、投獄されたりあるいは処刑されたりした。これらはユーゴスラビア連邦当局によって行われ、その理由(おおくは捏造されたものであった)はさまざまなものであった。たとえば、親ブルガリア的な偏向、マケドニアの自治拡大要求や、ユーゴスラビア連邦からのマケドニアの完全独立の要求、そして1948年のチトーとスターリンとの決別以降はコミンフォルムとの内通や、陰謀を働く政治団体・政治組織の結成、民主主義の拡大要求などがその粛清の理由とされた。一連の粛清の犠牲者の一人にメトディヤ・アンドノフ=チェント(Методија Андонов ЧентоMetodija Andonov-Čento)がいた。チェントは戦時下のマケドニア人民解放反ファシスト会議(ASNOM)の議長を務めたパルチザンの指導者であったが、内部マケドニア革命組織の一員としてマケドニアの完全独立のために策動を働いたとされた。かつてのマケドニア自治運動の一翼を担った生き残りの一人、ディミタル・ヴラホフは、「単に窓を飾り立てるために利用された」としている[42]

一方、かつてのミハイロフ派の活動家たちもまた、ベオグラードが支配するユーゴスラビア連邦当局によって圧力を受けていた。ブルガリアによる占領への協力、ブルガリア民族主義への加担、反共産主義活動、反ユーゴスラビア活動などの理由で次々に告発されていった。著名な犠牲者のなかにはブルガリア占領時代のスコピエ市長スピロ・キティンチェフ(Спиро Китинчев、Spiro Kitinchev)、オフリド市長イリヤ・コツァレフ(Илија Коцарев、Ilija Kocarev)、クルシェヴォ市長ゲオルギ・カレフ(Георги Карев、Georgi Karev)、そしてイリンデン蜂起に加わった革命家ニコラ・カレフ(Никола КаревNikola Karev)などがいた[43]。その他の例として、内部マケドニア革命組織の活動家でピトゥ・グリの息子であったステリオ・グリ(Стерио Гули、Sterio Guli)はチトーのパルチザン軍がクルシェヴォに到達したときに銃撃され、再びセルビアによるマケドニア支配が始まるのだと絶望したとい

ブルガリアのピリン・マケドニアにおける内部マケドニア革命組織の支持者もまた苦境に置かれていた。かつてのプロトゲロフ派(左派)の助力により、主な内部マケドニア革命組織の活動家たちはブルガリア共産党の当局によって駆逐され、その多くが殺害されるか投獄されるかした。幾らかの内部マケドニア革命組織の支持者はブルガリア共産党の政策に対する反対を公言し、ピリン・マケドニアにおいてマケドニア人民族意識の自覚を広めようとしたため、彼らは弾圧されるか、ブルガリア国外への脱出を余儀なくされた。

ユーゴスラビア領マケドニア人歴史家たちは、イリンデンの内部マケドニア革命組織の指導者たちがブルガリア人の民族意識を持っていたことを認めているものの、ユーゴスラビア領マケドニアの国立記念碑には彼らを民族的マケドニア人とされている。ユーゴスラビアの公式の歴史書は1903年のイリンデン蜂起と1944年の「第2のイリンデン」マケドニア人民解放反ファシスト会議の関連を主張しているが、これは1903年のイリンデン蜂起がアドリアノープル州、つまりトラキア地方で起きているという事実を無視したものである。内部マケドニア革命組織の活動家ゴツェ・デルチェフ、ピトゥ・グリ、ダミアン・グルエフ、ヤネ・サンダンスキの名前はマケドニア社会主義共和国の国家「Denes nad Makedonija」(en)の歌詞に登場する。


  1. ^ The Balkans. From Constantinople to Communism. Dennis P Hupchik, page 299
  2. ^ Britannica Online Encyclopedia - Internal Macedonian Revolutionary Organization (IMRO) [1]
  3. ^ Иван КАТАРЏИЕВ Archived 2008年1月2日, at the Wayback Machine.





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