佐世氏 経歴

佐世氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/03 01:03 UTC 版)

経歴

戦国時代以前

佐世氏は元々は佐々木義清を祖とする一族であり、その三男清信が出雲国大原郡佐世に土着してから、佐世氏を名乗ったのが始まりである。また、父の兄弟からは隠岐氏・塩冶氏富田氏・湯氏・高岡氏と派生しており、出雲においては大勢力として繁栄していった。その佐世氏の祖である清信から7代程たどった当主が、佐世氏において著名な人物である佐世清宗である。

佐世氏中興の祖・佐世清宗

天文9年(1540年)には、主君である詮久吉田郡山城の戦いに参加している。この時には詮久が敗退したため、清宗も出雲へと撤退している。

天文年間後半の頃には尼子氏の下部組織であった出雲州衆(国人衆)から直臣にあたる富田衆に抜擢され、天文23年(1554年)元旦には「杵築大社法楽」の連歌会に参加しており、彼は絵画をはじめ文芸に優れた武将であったとされている[要出典]。その後も各地を転戦しており、主要な戦いには富田衆として重要な立場にあったものと思われる[要出典]

永禄3年(1561年)に晴久が急死し、すぐに嫡男義久が家督を継承した。また、この時期には尼子十旗の一人、高瀬城城主で清宗の娘婿の米原綱寛が毛利方に降伏しており、後に第二次月山富田城の戦い対峙たいじしている。他の尼子十旗の城将達も降伏したため、義久は苦境に立たされることとなる。清宗は居城の佐世城を次男の佐世元嘉に預け、自ら兵を率いて嫡男の佐世正勝とともに富田城へと籠城した。

毛利氏出雲侵攻を4年余り耐えたものの、もはや尼子氏の衰運は確定的なものとなり、また月山富田城内も兵糧攻めにより、混乱の極みとなった。そのため清宗も、亀井・牛尾・湯等の譜代の尼子重臣たちともども降伏した。

毛利氏家臣として近世へ

毛利氏に降伏した後、佐世氏は敗残の将にもかかわらず、今まで通りの待遇で毛利氏家臣として重用され、1592年から始まる文禄・慶長の役から1600年関ヶ原の戦いにも参加して、忠勤に励んでいる。

関ヶ原の戦いの後、毛利氏長門周防に減封されると佐世氏もこれに従うが、朝鮮出兵の時の功により、本領地である出雲大原への帰還を許された。江戸時代藩士として続いた。後に萩の乱の首謀者となった前原一誠は、この佐世氏の末裔にあたる。


  1. ^ a b c d 太田 1934, p. 2597.


「佐世氏」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「佐世氏」の関連用語

佐世氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



佐世氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの佐世氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS