伊豆大島 人間史

伊豆大島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/06 04:17 UTC 版)

人間史

中世以前

日本書紀』の飛鳥時代の記述に、推古天皇28年(620年)八月条に掖玖(やく、現・屋久島)の人が「伊豆島」に漂着したとある。この伊豆島は伊豆諸島のことを指していると考えられる。書紀の記録ではほかにも、天武天皇4年4月18日条(675年5月20日)には麻績王の子が、同6年4月11日条(677年5月20日)には田史名倉などが伊豆島に流刑に処されている。

このように伊豆島は古くから流刑地とされ、『続日本紀』によれば神亀元年(724年)には伊豆国安房国常陸国佐渡国などとともに遠流の地に定められた。『続日本紀』には文武天皇3年5月24日(699年6月29日)には役小角が「伊豆嶋」に流された記録があるが、『扶桑略記』での対応記述は「仍配伊豆大島」とされており、この配流地は伊豆大島だったと考えられる。律令制においては伊豆国賀茂郡に属していたが、江戸時代に入ると江戸幕府の直轄とされた。『殿暦永久元年10月22日条(1113年12月9日)の記事によれば、同年に醍醐寺仁寛立川流の祖)が罪を得て「伊豆大島」に流されたという(永久の変)。

琉球王国正史中山世鑑』や『おもろさうし』、『鎮西琉球記』、『椿説弓張月』などでは、源為朝保元の乱に敗れて捕らえられ、伊豆大島に配流された後に島々を掠領したために工藤茂光に攻められたが、伊豆諸島の人々の助けで現在の沖縄県の地に逃れ、その子が琉球王家の始祖舜天になったとされる。

中世

伊豆諸島は伊豆国に属しており、中世に入ると伊豆大島も伊豆国の知行国主の支配を受けた。鎌倉幕府執権北条氏は伊豆守護職世襲していたが、北条氏の滅亡に伴い終結した。『太平記』には南北朝初期の争乱で奥州へ向かった兵船が嵐のため伊豆大島に漂着したという記述があるが、史実か定かではない。

応永3年7月23日(1396年9月3日)には伊豆守護・上杉憲定に伊豆大島などの伊豆諸島を含む伊豆国の所領が交付されたという記録がある。この所領は前年七月二四日に父・上杉憲方の遺領として安堵されたものだった。また、『八丈島年代記』によると金川(現・神奈川県横浜市神奈川区)の領主・奥山宗林が八丈島小島青ヶ島三宅島御蔵島代官となったとされるが、記述のない伊豆大島は別の代官が任命されていたか不明である。この後、戦国時代になると後北条氏が伊豆諸島全体を支配するようになった。なお、天文21年9月19日(1552年10月17日)の噴火の際に鎮静を願った祈祷札が今も元町の薬師堂にある。

近世

近世に入ると、島内は海方(または船手稼、浦方)と呼ばれる新島、岡田と、山方(または山手稼、釜方)と呼ばれる竈方野増、差木地、泉津の計5村で構成されるようになる。さらに後に差木地村から波浮湊村が分かれた。なお、天正18年(1590年)に関東の領主が徳川家康になった後も、伊豆諸島ではしばらく北条氏の旧臣の支配が続き、その後に江戸幕府代官が治めるようになった。なお、生類憐れみの令の際に江戸などで集めた雉子などが宝永5年(1708年)まで20年余りにわたり島で放鳥された。やがて寛文10年(1670年)に代官の、享保8年(1723年)には手代の渡島も禁止され、以後は新島村の神主である藤井氏が行政を担当した。地役人を世襲で助ける島の有力者を島代官と称した。なお、享保2年(1717年)の改革により、島へ渡る役人と島の有力者を、それぞれ島役人、地役人と呼ぶようになった。

1703年12月31日(元禄16年11月23日)の元禄関東地震の大津波で、湖だった波浮港が外海とつながった。

大島では畑で大麦里芋大根大豆などを植えていた。田がなかったため近世前期には年貢で納められた。また、後にサツマイモなども栽培され、養蚕も行われた。元禄2年(1689年)には釜方村などで製塩された2,000以上の塩が納められ、代わりに246俵の扶持米が給付されている。また、浦方には夏と秋に釣ったの4分の1ずつ運上と御口(付加税)、春と秋にはムロサバなどに10分の1の運上が課せられた。翌元禄3年(1690年)に塩年貢は廃止されて金と京銭による代金納となり、享保7年(1722年)には運上も金納となる一方で被下米が減っている。また同8年(1723年)からは海苔や魚介類を船で江戸の問屋に売渡し、経費などを除いた利益の1割を上納するようになった。

江戸時代にも流刑地としての役割は続き、『伊豆大島志考』によると慶長12年(1607年)の岡部藤十郎をはじめ、同17年(1612年)にはキリシタンジュリアおたあ天和2年(1682年)に越後騒動に関連して小栗兵庫ら、元禄16年(1703年)には赤穂浪士の遺児ら4名(間瀬定八、吉田兼直、中村忠三郎、村松政右衛門)が流された。また、日蓮宗不受不施派なども流されている。しかし流人受入れや三宅島までの流人船の御用が負担であったため、明和3年(1766年)に貢金の上乗せを条件に流人船御用が免除された。同年以降は大島への流人は途絶え、御蔵島利島とともに寛政8年(1796年)に正式に流刑地から除外された。また、同年には島開所が設けられ、大島を含む伊豆諸島の水産物などは同所以外への販売が禁止された。この航路が長いため搬送中に魚の鮮度が落ちて商品競争力が激減したが、江戸の問屋が船足の速い押送船に大島の水主を乗せて魚介類を江戸に運送・販売することを願出て、文化13年(1816年)に許可されると売上は急増。漁業が島の産業の中で大きな比重を占めるようになった。

近代以降

明治になると、1882年(明治15年)に秋広平六が西洋帆船を建造し、本土との往来などに使われた。1897年(明治30年)には相陽汽船が伊東(現・静岡県伊東市)との間で航路を開き、翌年には同航路で実業家・杉本が和船の運航を始めた。1900年(明治33年)に逓信省は杉本と契約し、郵便輸送を開始した。なお、当時の鮮魚や畜産品などの貨物輸送は島民の船で島内の元町港や波浮港から東京市横浜市へ直接向かった。

伊豆大島(1933年7月)

1906年(明治39年)には東京湾汽船が大島・伊東間に定期航路を開設し、翌年には東京市〜大島航路や東京市〜大島〜利島新島式根島神津島航路が命令航路となり、大島への寄港回数が年間96回以上となった。定期航路が整備されると和田三造坂本繁二郎中川一政村山槐多らの著名人や芸術家が来島し、島を題材にした作品も残された。また、1928年(昭和3年)に東京市との間に日航便が就航し、同年には野口雨情作詞・中山晋平作曲の歌『波浮の港』が流行したこともあって観光客が増加した。1931年(昭和6年)には三原山の砂漠溶岩原の通称)にロバラクダが導入され、1935年(昭和10年)に大島自然動物公園(現・都立大島公園)が開園している。

横浜開港に伴う食肉需要の増加で島の放牧山羊が乱獲されて一時はほぼ絶滅したが、その後は肉牛の生産が活発になった。さらに明治30年代に乳牛酪農が主流となり、1926年(昭和元年)の島内の飼育乳牛頭数は1,200頭にのぼっている。また、江戸時代末期に生産を解禁されたは、従来の主要な商品だったとともに島の有力産業に成長した。この他、島内では古くから灯・整髪・食用に用いられた椿油は明治以降に機械油や整髪油として生産が増加した。1916年(大正5年)の島の産品は一位から順に海産物、牛酪、薪、炭、椿油となっている。

インフラストラクチャー面では1872年(明治5年)に野増で初の小学校が開校し、1875年(明治8年)に新島村と波浮で郵便局が開局した。1902年(明治35年)には下田(現・静岡県下田市)と大島の間に海底電線が開通した。1916年(大正5年)には元村と野増村で伊豆諸島で初の電灯が設けられ、1927年(昭和2年)には岡田、泉津、波浮港、差木地で送電が始まった。また、1931年(昭和6年)には島内で、1934年(昭和9年)には本土との間で電話が開通した。1933年(昭和8年)に大島六か村自動車道路が造られると、1935年(昭和10年)には島内でバストラックが運行されるようになった。なお、1940年(昭和15年)には伊豆諸島で最初の接岸桟橋を持つ岡田港が竣工した。

1923年(大正12年)9月1日の大正関東地震関東大震災)では、高さ12 mの津波が襲った。

太平洋戦争下では、1943年(昭和18年)8月に日本軍の本格的な配備が始まり、アメリカ軍上陸作戦を想定して、島民も動員して海岸から三原山中までトーチカを含む陣地防空壕飛行場(現・大島空港)が建設された。米軍の上陸はなかったものの、戦闘機の攻撃を受けた。サイパン島が陥落して、同島を含むマリアナ諸島に展開したB-29爆撃機による日本本土空襲が始まると、防空監視の拠点ともなった。南関東の都市が夜間空襲を受けて炎上すると、伊豆大島からも空が赤く見えたという。最終的に約1万人に増えた兵員に食糧を確保することと、米軍上陸時の被害を減らすため、1944年(昭和19年)以降は本土への集団疎開が進められて約3500人が島を離れたが、「どうせ死ぬなら先祖代々暮らしてきた島で」と居残りを望む島民もいた。疎開先は島民の縁故者や山梨県[12]長野県などで、やがて輸送船の不足もあって疎開は中止された。

1944年(昭和19年)には小笠原諸島への軍事輸送のために島内に送受信所が設置され、大日本帝国海軍第二魚雷艇特別攻撃隊の中間基地として波浮港が接収された。また、1945年(昭和20年)6月には本土決戦に備えて第321師団が配備された[13]

第二次世界大戦後の1946年(昭和21年)1月29日に、日本を占領統治した連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が発令したSCAPIN-677により、伊豆諸島は他の多くの離島とともに、日本の行政から切り離されることになった。これを受けて島民の中には暫定憲法を制定する行動もあった[14][15]が、3月22日に方針が変更されて分離は行われなかった。

1952年(昭和27年)4月9日に、羽田福岡行き日本航空301便「もく星号」が三原山の高度600 m(2,000 ft)に衝突し、31人が死亡した。

1955年(昭和30年)4月1日に、伊豆七島国定公園の一部となる[16]

1958年(昭和33年)の狩野川台風では、24時間雨量約400 mmにより土砂災害が発生し、元町地区の104棟が全半壊して死者、行方不明者各1人を出した[17]

1964年(昭和39年)7月7日に、富士箱根伊豆国立公園の一部となり[18]、伊豆七島国定公園の指定が解除される[19]

1965年(昭和40年)1月11日午後11時頃に、元町港のすぐ近くにある寿司屋を兼ねた旅館を火元とする大火があり、折からの強風にあおられて消失面積15万平方メートル、全焼418戸、罹災408世帯の被害が出て1311名が焼け出される被害が出た。この火災に対しては災害救助法が適用された。この火災については約30キロメートル離れた対岸の伊豆半島の熱川稲取からも見えたという。


注釈

  1. ^ 2006年に標高が改定された。

出典

  1. ^ 日本の主な山岳標高 - 国土地理院、2018年12月閲覧
  2. ^ a b 町勢データ:最新の人口・世帯数 - 大島町、2018年12月閲覧
  3. ^ 伊豆大島ってどんなところ? - 大島観光協会、2018年12月閲覧
  4. ^ a b 伊豆大島火山地質図: 伊豆大島火山の地質 - 産業技術総合研究所 地質総合センター、2018年12月閲覧
  5. ^ a b c 伊豆大島火山地質図: 伊豆大島火山の地質 - 産業技術総合研究所 地質総合センター、2018年12月閲覧
  6. ^ 伊豆大島火山地質図: 19世紀以降の活動 - 産業技術総合研究所 地質総合センター、2018年12月閲覧
  7. ^ 火山防災のために監視・観測体制の充実等の必要がある火山”. 気象庁. 2016年2月25日閲覧。
  8. ^ 58. 伊豆大島 気象庁, 2016-03-09閲覧。 (PDF)
  9. ^ 17)伊豆大島火山 産業技術総合研究所, 2016-03-09閲覧。 (PDF)
  10. ^ 平年値ダウンロード”. 気象庁. 2021年6月閲覧。
  11. ^ 観測史上1〜10位の値(年間を通じての値)”. 気象庁. 2021年6月閲覧。
  12. ^ 【山は博物館】それは戦時下だった(11)本土決戦目前 三原山に陣地毎日新聞』朝刊2019年2月6日(16面)2019年2月10日閲覧。
  13. ^ 戦史叢書『本土決戦準備』1、231頁、544頁。
  14. ^ “独立想定し「暫定憲法」 GHQ統治下で日本から分離の伊豆大島”. 朝日新聞: p. 1. (1997年1月7日) “伊豆大島の「暫定憲法」全文”. 『朝日新聞』: p. 30. (1997年1月7日) “自立への模索53日間、幻の伊豆大島共和国 「暫定憲法」全文発見”. 『朝日新聞』: p. 31. (1997年1月7日) 
  15. ^ 榎澤幸広 2013.
  16. ^ 1955年(昭和30年)4月1日厚生省告示第84号「国立公園法により東京都大島大島町等を準用区域に指定し伊豆七島国定公園と称する件」
  17. ^ 55年前の教訓生かせず 大島町長「認識不足だった」産経新聞』2013.10.17
  18. ^ 1964年(昭和39年)7月7日厚生省告示第318号「国立公園に関する件」
  19. ^ 1964年(昭和39年)7月7日厚生省告示第319号「国定公園に関する件」
  20. ^ 2013年10月台風26号に伴う伊豆大島の大雨土砂災害 防災科学技術研究所 水・土砂防災研究ユニット
  21. ^ 防災科研の火山観測施設で観測された伊豆大島の土砂災害に伴う震動 (PDF) 防災科学技術研究所
  22. ^ 平成25年台風第26号 東京都大島町関連の気象情報 気象庁
  23. ^ 伊豆大島火山博物館(伊豆大島ジオパーク)






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