丹後杜氏
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蔵人のくらしと酒造り唄
大正期以前
大正時代頃までの酒蔵の暮らしは、いわゆる朝・昼・晩の時間感覚とは異なっていた[54]。ある酒蔵の1日を例に挙げると、次の通りである[54]。
- 0時30分 起床し、それぞれの持ち場で作業開始。全員での蒸し米取りまで行う。
- 5時00分 朝食。食後直ちに蒸米取り後の整理を行い、約2時間の就寝時間をとる。この就寝時間は「ズル」と呼んだ[54]。
- 7時30分 起床し、仕込み作業を開始。30分の作業後、15分の小休みの間に頭領から当日の作業日程について指示を受ける。
- 10時00分 30分休憩。この休憩時間は「四ツタバコ」と呼んだ。元気づけとして酒を飲むこともあった。休憩後、作業を再開。
- 11時30分から12時 昼食後、14時までの約2時間の就寝時間をとる。
- 14時から90分作業し30分休む、を、繰り返す。
- 17時30分頃に作業を終えたものから風呂に入る。
- 18時30分 夕食。酒は1人1合、1日2合が配給された。
- 20時 就寝
- 22時 起床。室作業と身辺の整理整頓を終えたら、自由時間となる。
なお、酒蔵によって起床時間は午前2時などの些細な差異はあるが、昼も夜もない暮らしのサイクルに酒造りがあった長時間労働の実態に大差はない[55]。1日の終わりから翌日の作業開始までの間の夜間、およそ2時間おきに起きて30分ほどの作業をすることは「あい起き」と呼ばれた[55]。
「あい起き」は生酛を育成するための約30日間、こまめに酛に櫂を入れ、発酵中の酒母の温度を調整するために必要な作業だった[56]。また、醪づくりの工程においても、アルコール生成に伴う炭酸ガスで酒が樽から溢れないようにする泡消しのため、昼夜問わず2~3時間起きの作業があった[57]。
こうした過酷な労働環境のなかで、故郷に思いを馳せ自らを慰める唄は、各地で郷土の民謡をベースに自然発生的に生まれ、伝統や地方の風土、往時の人々の心情を情緒的に表している[58]。酒蔵の作業はすべて唄に支配され、作業や時刻ごとに歌詞や歌曲も異なり、総じて「酒造り唄」と呼ばれる[58]。
昭和期
太平洋戦争後まもなくに伏見の酒蔵に赴いた者の回顧録によれば、酒蔵は朝が早く、機械化される以前は不規則な務めが多く、立合事務ともなれば毎日税務署員が出張してくるため心休まる時もなく、規律ある軍隊生活より嫌だったという[59]。
様々な工程の機械化によって、過酷な労働環境はだいぶ緩和され、1990年代に記録されたある酒蔵の1日を例に挙げると、次の通りである[60]。
- 5時50分 起床
- 6時00分 作業開始(蒸米や麹の準備など、各々の持ち場における役割)
- 6時45分頃 各自、作業準備ができた者から朝食を摂る。
- 7時45分頃 蒸米が蒸しあがり、各持ち場において仕込み作業開始。
- 11時40分頃 昼食
- 13時 作業再開
- 17時 夕食
- 18時30分から約15分の仕舞い仕事をし、終業する。役付き従業員には残務がある。
注釈
- ^ 丹後杜氏の人数については、同時期であっても文献により記録されている人数に差が大きく、京都府立丹後郷土資料館の文献『特別展 丹後の酒』を出典とする本文の数字は、1954年は『昭和一四年酒造年度組合会員名簿』、1954年は『伏見酒造組合誌』、1976年は『昭和五一酒造年度組合員名簿』に基づいている。なお、『丹後杜氏誌』では1954年(昭和29年)の丹後杜氏を125人(うち杜氏5人)としている。また、『丹後町史』では1939年(昭和14年)195人、1974年126人と記載しており、このうちの何名が杜氏であるかは記録していない。
- ^ 1933年(昭和8年)、「宇川杜氏成徳会」から満州へ丹後町畑出身の片山藤次郎(杜氏)を派遣。満州国新京に牧野七太郎酒造場が開設した満州酒造店で醸造を行った。また、鞍内出身の丹後杜氏・倉岡利吉が酒造勤務先の堀野商店の依頼により、同じく丹後半島出身の蔵人20人と家族を伴って海を渡り、中国北支豊台造甲村の亜細亜醸造にて日本酒を醸造した。(林保之氏の『宇川郷報』(京丹後市文化財保護課所有資料)の調査による。)
- ^ 2014年3月閉校。
- ^ 酒造教育の推進は国の指針で、学習の柱のひとつに醸造枠が設置されたことによる。また、丹後杜氏組合長(当時)岩崎熊治郎の依頼もあったが、一部教職員の反対もあり、遅くとも1963年には廃止されていた(丹後杜氏誌原稿のために収集された織戸昭徳氏のメモ、及び、1963年に同中学校に赴任した小林氏(下宇川自治区長)の2021年11月14日の証言による。)。
- ^ ルートは、「宇川―黒部―くすみ谷―大江山―福知山-檜山-老ノ坂-京都-伏見)と記録するもの、「宇川-黒部-内記-余部-奥大野-加悦-雲原-福知山-園部-老ノ坂-京都-伏見」と記録するものがあるが、ルート上に大きな差異はない。
- ^ 佐々木氏の論文『生活文化研究8 丹後杜氏の実態に就いて』182頁では5日間と記載。
- ^ 宇良神社所蔵
脚注
- ^ 丹後杜氏誌(1995), p. i.
- ^ a b c d e f “丹後杜氏の歴史研究 林さん、7年の成果展示”. 毎日新聞. (2019年11月18日) 2021年11月4日閲覧。
- ^ a b “会社概要”. キンシ正宗. 2021年2月17日閲覧。
- ^ a b 片村有宏 (2019年11月18日). “丹後杜氏 熱意の歴史 今に”. 京都新聞
- ^ a b c 片村有宏 (2021年1月21日). “伏見の酒づくり 丹後杜氏の足跡”. 京都新聞社: p. 20
- ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 131.
- ^ 「農漁村出身の酒造季節労務者」。菅間誠之助(2005)「杜氏」『世界大百科事典改訂版』20巻p.41。平凡社。
- ^ a b 佐々木秀子 1959, p. 33.
- ^ 『丹後町史』丹後町、1976年、418頁。
- ^ a b c 『丹後町史』丹後町、1976年、416頁。
- ^ a b c d e f g h i j 松田(1997), p. 181.
- ^ a b c d e f g h i 『特別展 丹後の酒』京都府立丹後郷土資料館、1992年、26頁。
- ^ a b c 丹後半島学術調査報告書 生活構造の変化と福祉ニーズに関する研究-酒造出稼ぎ母村の生活条件と意識(宇川杜氏の場合)-『向井利栄』京都府立大学・京都府立大学女子短期大学部、1983年、26頁。
- ^ a b c d e 佐々木秀子 1959, p. 30.
- ^ a b 丹後半島学術調査報告書 生活構造の変化と福祉ニーズに関する研究-酒造出稼ぎ母村の生活条件と意識(宇川杜氏の場合)-『向井利栄』京都府立大学・京都府立大学女子短期大学部、1983年、31頁。
- ^ a b c d e 岩崎熊治郎『酒造り丹後流』 78巻、12号、1983年、916頁。
- ^ a b c d e f g h i 日本地誌研究所『日本地誌 第14巻 京都府・兵庫県』二宮書店、1973年、208頁。
- ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 31.
- ^ 『丹後の伝説ふるさとのはなし』奥丹後地方史研究会丹後の民話編集委員会、1973年、58-59頁。
- ^ a b 丹後杜氏誌(1995), p. 32.
- ^ a b c d e f g h i j k 松田(1997), p. 182.
- ^ a b 丹後杜氏誌(1995), p. 33.
- ^ a b c d e 丹後杜氏誌(1995), p. 34.
- ^ a b c d e f 『丹後町史』丹後町、1976年、417頁。
- ^ 岩崎熊治郎『酒造り丹後流』 78巻、12号、1983年、917頁。
- ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 81.
- ^ “海を渡った丹後杜氏、満州で日本酒造り 邦人激増し需要拡大、酒が唯一の慰安”. 京都新聞. (2021年1月21日) 2021年11月11日閲覧。
- ^ 丹後半島学術調査報告書 生活構造の変化と福祉ニーズに関する研究-酒造出稼ぎ母村の生活条件と意識(宇川杜氏の場合)-『向井利栄』京都府立大学・京都府立大学女子短期大学部、1983年、32頁。
- ^ a b 佐々木秀子 1959, p. 34.
- ^ a b c 『特別展 丹後の酒』京都府立丹後郷土資料館、1992年、29頁。
- ^ 丹後半島学術調査報告書 生活構造の変化と福祉ニーズに関する研究-酒造出稼ぎ母村の生活条件と意識(宇川杜氏の場合)-『向井利栄』京都府立大学・京都府立大学女子短期大学部、1983年、39頁。
- ^ a b 佐々木秀子 1959, p. 35.
- ^ 佐々木秀子 1959, p. 36.
- ^ a b 佐々木秀子 1959, p. 28.
- ^ a b c d e 『丹後町史』丹後町、1976年、418頁。
- ^ a b c d e 丹後杜氏誌(1995), p. 38-39.
- ^ a b 『丹後町史』丹後町、1976年、419頁。
- ^ 日本地誌研究所『日本地誌 第14巻 京都府・兵庫県』二宮書店、1973年、209頁。
- ^ a b c 丹後杜氏誌(1995), p. 41.
- ^ a b c 佐々木秀子 1959, p. 27.
- ^ 日本地誌研究所『日本地誌 第14巻 京都府・兵庫県』二宮書店、1973年、209-210頁。
- ^ 東世津子『小脇の子安地蔵さん』あまのはしだて出版、1997年、47頁。
- ^ a b 丹後杜氏誌(1995), p. 112-128.
- ^ a b 丹後杜氏誌(1995), p. 45.
- ^ a b 『丹後杜氏誌』丹後町教育委員会、1995年、46頁。
- ^ a b c 丹後杜氏誌(1995), p. 47.
- ^ a b 佐々木秀子 1959, p. 29.
- ^ a b c 丹後杜氏誌(1995), p. 49.
- ^ 松田松男『戦後日本における農家出稼ぎの変貌 : とくに酒造出稼ぎをめぐる地理学的研究』立教大学、1997年、182頁。
- ^ a b 丹後杜氏誌(1995), p. 53.
- ^ “「アユのかす漬け」復活に意欲”. 京都新聞. (2018年9月29日)
- ^ 『かわとひととふるさと うかわ』上宇川地区公民館、19890901、82頁。
- ^ “「アユのかす漬け」復活に意欲”. 京都新聞. (2018年9月29日)
- ^ a b c 丹後杜氏誌(1995), p. 132.
- ^ a b 丹後杜氏誌(1995), p. 128.
- ^ 『特別展 丹後の酒』京都府立丹後郷土資料館、1992年、18-19頁。
- ^ 『特別展 丹後の酒』京都府立丹後郷土資料館、1992年、20頁。
- ^ a b 丹後杜氏誌(1995), p. 86.
- ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 112.
- ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 133.
- ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 56-58.
- ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 56.
- ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 58.
- ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 59.
- ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 60.
- ^ a b c d 『特別展 丹後の酒』京都府立丹後郷土資料館、1992年、5頁。
- ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 2.
- ^ a b c d e f g 丹後杜氏誌(1995), p. 3.
- ^ a b 『特別展 丹後の酒』京都府立丹後郷土資料館、1992年、6頁。
- ^ a b 丹後杜氏誌(1995), p. 4.
- ^ 西本願寺所蔵
- ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 6-8.
- ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 7.
- ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 11.
- ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 10.
- ^ a b c d e f g h i “京都北部「酒の京都」”. 一般社団法人 京都府北部地域連携都市圏振興社. 2021年11月4日閲覧。
- ^ “但馬杜氏の伝統守りたい 新温泉町に酒蔵開設へ”. 産経新聞社 (2019年2月22日). 2024年3月30日閲覧。
- ^ 会社案内 文太郎、2024年3月30日閲覧
- ^ 国税局法人番号公表サイト 大同酒造(株)
- ^ 『酒蔵名鑑2014~15年版』廃業蔵名簿、250 - 252頁
- ^ 増田晶文『うまい日本酒をつくる人たち』草思社、2017年、p.228
- ^ 丹後杜氏誌(1995), p. 136.
- ^ “亡き友にささぐ海底酒 京都・遺失や盗難乗り越え引き上げ”. 京都新聞. (2018年5月10日)
- ^ “地酒を海底で熟成”. 北近畿経済新聞. (2016年4月23日)
- ^ “「米酒交換」で酒造り”. 全国農業新聞第3113号. (2019年9月6日)
- ^ “味わいすっきり、京都・丹後産の米焼酎 限定品を一般販売へ”. 京都新聞. (2018年10月30日) 2021年11月4日閲覧。
- ^ “丹後岩木ファームについて”. 丹後岩木ファーム. 2021年11月4日閲覧。
- ^ “醸す⑤発酵”. 京都新聞. (2014年1月7日)
- ^ “京都・与謝野町、ホップ生産に力 都市部の醸造所増加”. 産経新聞. (2021年10月29日) 2021年11月4日閲覧。
- ^ “特産ホップでビール醸造 京都・与謝野町が特区申請”. 産経新聞. (2020年1月11日) 2021年11月4日閲覧。
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