中橋基明
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/29 03:56 UTC 版)
人物
大衆文化を愛し、映画好きで『新青年』なども愛読していた。将校になってからも料亭で騒ぐ軍人が多かった当時、中橋は流行のスケート場やダンスホール、将校集会所に通い、ひとりダンスの練習をしているようすが当時の部下達[誰によって?]によって語られている。[要出典]
将校マントの裏地は、203高地における乃木希典の赤マントを意識して総緋色で仕立てていた(本来は表地と同色)。赤マントは乃木への意識のほかに、敵または味方から血の色を気取られぬようにする、自ら敵の標的となって戦う、といった理由もあった。後述する交際のあった女性には「返り血を浴びても目立たないからね」と話していた[5]。桐野利秋(中村半次郎)を意識して香水を購入したこともあった。
生涯独身だったが、少尉時代に出会った芸者の女性がいた[5]。中橋より7歳年下で、家庭の事情で医学生から花柳界に入った女性にとって、最初に客となった男性が中橋だった[5]。満洲赴任からの帰国後は中橋が多忙という理由で会う機会は減ったという[6]。それでも決起前夜に中橋は女性を勤務先の待合に訪問したが、折悪しく彼女は手術を受けて入院中で(その事情を中橋は知らなかった)「他言無用、開封してはならぬ」と表書きした封筒だけを待合の関係者に渡して退去した[5]。女性は中橋の処刑から32年後の1968年に、事件関係者の遺族の会を通じて中橋の弟妹と初めて面会し、託されていた封筒を渡した(内容は、中橋の私物)[7]。事件元被告の池田俊彦によると、処刑後50年を経ても墓参を欠かさぬ一人の女性がいたという[8]。
注釈
- ^ 後に代々木の陸軍衛戍刑務所において同じく入所していた田中軍吉に「お前いずれ出るんだろうが、出たら、朝日新聞に行って緒方という人に甚だ無作法をしたが、宜しく言ってくれ」と言伝し、田中は出所後に緒方のもとを訪れ伝えた。
出典
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