中国文様史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/02 17:41 UTC 版)
明・清時代
1368年には江南から起こった明が、再び漢民族の王朝を建て、第3代永楽帝のときに首都を北京に移し、最盛期を築いた[19]。宮廷の祭器としてそれまでの金属器に代わり陶器が高い評価を得るようになった[19]。そのため景徳鎮には宮廷用の陶器を作らせるための官窯と、元様式を継承する民窯との2つの流れができた[19]。官窯では皇帝の印である龍と鳳凰の文様が圧倒的に多く使用された[19]。官窯の龍の爪は5本だが、民窯では爪の数を減じて3本とするなどの制約が設けられた[19]。また明代の陶磁器の大きな特色は「五彩」という色彩美である[19]。万暦年間に焼かれた「五彩」は万暦赤絵の名で親しまれ、青花の上に赤・緑・黄色を置いて低温で焼き上げたもので、発色の美しさが目立つ陶磁器であった[19]。ただし「五彩」は色味の美しさを見せるためのものゆえ、文様の表現は「青花」に比べるとやや雑で崩れた感がある[15]文様は、龍や鳳凰の他に鶴・松竹梅・桃のような、様々な吉祥文や花鳥文が描かれた[15]。
清は明の文様を引き継いだが、文様の数はさらに増え、そのほとんどに吉祥的な意味が託された。陶磁器は技量面で改良と新開発があり、表現は写生的で精緻なものが多く作られた[15]。また皇帝の袍(ほう)には龍や十二章が使われ、皇后は鳳凰、文官や民間なども身分により定められた文様が使われた[20]。
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