与倉知実
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 05:04 UTC 版)
経歴
薩摩・鹿児島藩の出身。
明治4年(1871年)7月に陸軍大尉、明治5年(1872年)8月に陸軍少佐(2番大隊長)、明治6年(1873年)2月に近衛歩兵第4大隊長を経たのち、明治8年(1875年)2月、陸軍中佐・歩兵第13連隊長となった。
明治9年(1875年)10月24日の神風連の乱では、自宅を神風連・中垣景澄ら8人の襲撃を受けるが、妻・鶴子の機転で馬丁を装ってその場を脱出した。その後は大兵営の歩兵第13連隊を率いて鎮圧をはかった。
しかし、明治10年(1877年)の西南戦争「段山(だにやま)の戦い」で被弾した。同じ日、鶴子は熊本城で女子を出産したが、与倉は翌日死去した。
家族
妻は鶴子で、宮崎出身の養嗣子に後の陸軍中将・与倉喜平がいる。
出典
「神風党の乱」―そのとき警察は― (非売品) ほか
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