ロンドン・アンド・ノース・イースタン鉄道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 00:21 UTC 版)
塗装
LNERでは基本的には旅客用以外はGWR以外の2社と同じく、貨物・入替機が黒一色、貨客両用機が黒地に色のついた帯(色はLMSと同じく赤)であり、独自に選んだ旅客用はアップルグリーン(同じ緑系のSR・GWRに比べるとかなり明るい色)で車体の上部に「白枠の黒帯」、下部に「黒枠の赤帯」を塗っていたが、いずれにも金色のレタリングが施された。客車は一般にチークのニス塗り仕上げであり、数少ない金属製客車にもわざわざ木目まで再現したチークに似た塗装が施された。一部の特別列車とA4形パシフィック機関車には、国王の銀婚式記念でシルバーグレー(明灰色)のものがあり、後期には車体がガーターブルーで車輪がインディアンレッドなど一般とは異なる塗装が施された[1]。
宣伝広報
LNER はイギリスに広範な路線を有し、ロンドンからイングランド北東部ならびにスコットランドへ列車を運行していた。1923 年の強制的な鉄道会社グループ化により、イングランドとスコットランドにひろがるかつての競合会社が LNER として協調する必要生じた。LNER の一般イメージを迅速に作り上げる作業が、初代宣伝部長ウィリアム M. ティーズデール (William M. Teasdale) に与えられた。ティーズデールは、広い称賛を勝ち得ているロンドン地下鉄ポスター広告のスタイルと内容に采配を振っているフランク・ピック (Frank Pick) の哲学とポリシーから影響を受けていた。ティーズデールは画家やデザイナーを厳格な指針に縛り付けず、自由にさせた。ティーズデールが LNER の副総支配人に昇格した際には、後任として国有化まで LNER の宣伝部長に留まったセシル・ダンドリッジ (Cecil Dandridge) にこの方針が引き継がれた。ダンドリッジは、後にイギリス国鉄で用いられる Gill Sans 書体の採用に貢献した。
LNER は工業指向の会社であり、イギリスの石炭の三分の一以上を輸送して貨物収入の3分の2を得ていた。これとは別に、LNER が自身が広告を通じて与えていた印象は、優美で高速な列車と洗練された目的地であった。 LNER の宣伝キャンペーンは、競合他社に較べ高度に洗練され進んだものであった。ティーズデールとダンドリッジはトム・パーヴィスといった最高峰のグラフィックデザイナーやポスター画家に仕事を依頼し、LNER のサーヴィスを宣伝するとともに大衆が夏期休暇に東海岸を訪れるよう呼びかけた。
主任機械技師
鉄道網の表看板は機関車と客車に多くを負っており、それゆえ LNER 主任機械技師 (CME) の個性が鉄道に深く刻まれている。LNER には歴代三人の CME が就任した。
サー・ナイジェル・グレズリー
サー・ナイジェル・グレズリーは LNER の初代 CME であり、LNER の存続した殆どの間その任にあったため、LNER にもっとも影響を及ぼした。グレズリーはグレート・ノーザン鉄道 CME を経て LNER の CME に就任した。グレズリーは大型機関車策で知られており、とりわけしばしば蒸気機関車の最高速度を記録した4468号機「マラード」(今日まで破られていない)で記憶されている他、3シリンダー機の中央シリンダーバルブを残りの2つからのてこで駆動することで外部からの点検をやりやすくする[2]「グレズリー式連動弁装置」に名を残している。しかしながら、アーネスト・スチュワート・コックスは1942年に作成したレポートで、LMSの機関車と比較して6倍の故障が起きていること、固有の欠陥があり世界中で使用が中止されていること、理論的には正しいが実際は正しく作動していないことを指摘し、新しい機関車にこの設計を用いてはいけないと結論付けている[3]。2気筒に比べて製造コストが高いだけでなくメンテナンス不足に陥りやすい自身の設計に固執したためLNERに無駄なコストがかかったとの見解も存在する[4]。グレズリーは在任中の1941年に死去した。
エドワード・トンプソン
エドワード・トンプソン (Edward Thompson) の短い在任期間 (1941年 - 1946年) は議論の種となっている。CME 昇任以前よりグレズリーに対して批判的であったため、トンプソンの決定は前任者に対する嫌悪によるものだと解釈する向きもある。しかし、グレズリーの設計には長所と同時に欠陥もあったことは指摘せねばならない。彼が行ったことは技術的に正しく、世界の潮流に沿ったものであった[5]。トンプソンの業績は戦時下に頑丈で信頼性の高い貨物用機関車を設計したことにある。トンプソンは1946年に退職した。
アーサー・H・ペパコーン
アーサー・H・ペパコーン (Arthur H. Peppercorn) の CME 在任期間は国有化のため 18 箇月に短縮された。新構想よりは再構築という雰囲気のこの短期間にペパコーンが行った設計で注目に値するのは、A1形およびA2形パシフィック形急行旅客用蒸気機関車であるが、その殆んどは国有化後に完成した。グレズリー門下のペパコーンはまたグレズリーの賞讃者でもあり、ペパコーン設計の機関車はグレズリーの古典的設計と、グレズリーが十分には為し得なかった信頼性と堅牢さとを併せ持つものであった。
- ^ 高畠潔『イギリスの鉄道の話』成文堂書店、2004年、ISBN 4-425-96061-0、P80・100-101。
- ^ 齋藤晃『蒸気機関車200年史』NTT出版、2007年、ISBN 978-4-7571-4151-3、P168-169・253。
- ^ Report on "2 to 1" Gresley valve gear on L.N.E.R. 3-cylinder locomotives
- ^ https://rchs.org.uk/wp-content/uploads/2021/03/FINAL-Wilson-LNER_2.pdf#page=34
- ^ World Steam in the Twentieth Century P72 アーネスト・スチュワート・コックス著 イアン アラン出版 1969年
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