リブモント条約 リブモント条約の概要

リブモント条約

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/08 00:38 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動

内容

879年に西フランク王ルイ2世が死去、ルイ3世カルロマン2世の二人の息子が継承争いの末、共に王位を継承し、ロートリンゲン(ロレーヌ)地方の西部(旧ロタリンギアの一部)はルイ3世のものとなった。しかし、880年に結ばれたこの条約で、西フランク王国のルイ3世は、ロートリンゲン西部を放棄した[1][2]。放棄された地域は過去ヴェルダン条約で画定された国境まで及び、この地域が再び東フランク王国に帰属することになった。一方、ルイ2世死去後の混乱に乗じて中フランク王家の姻戚であるボソキスユラブルグント王国(プロヴァンス王国)を興し独立を果たし、888年にはボソの女婿ルドルフ1世ユーラブルグント王国(旧ロタリンギア王国の一部)の王位に就き独立した。それから半世紀後の933年、ユーラブルグント王ルドルフ2世[3]がブルグントを統一し(両ブルグント王国)、イタリア政策の背景となる複雑な国際関係が生まれた。

880年を有体に書けば、メルセン条約の国境が南北にまっすぐだった部分を、S字クランクのように再画定したのである。結果として、東フランク王国がフランケン地方ザクセン公国アルザス・ロートリンゲンにまたがる地域を支配することになった。ロートリンゲンをめぐる両王国の抗争は今後も続いた。しかし、この条約で定められた勢力範囲は、基本的にはオランダ独立戦争まで大きく変更されることはなかった。キスユラブルグント王国は、近代のサルデーニャ王国リソルジメントを伏線づけていた。

関連項目

参考文献

  • 成瀬治 他 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年
  • 瀬原義生 『ドイツ中世前期の歴史像』 文理閣、2012年

  1. ^ 成瀬、p. 92
  2. ^ 瀬原、p. 54
  3. ^ ブルグント王ルドルフ2世プロヴァンスボソの娘ウィラの息子である。ただしウィラはカロリング家とは直接の血縁関係はないとみられる(キスユラブルグント王ボソ参照)。


「リブモント条約」の続きの解説一覧




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「リブモント条約」の関連用語

リブモント条約のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



リブモント条約のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのリブモント条約 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS