ラーンナー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 17:11 UTC 版)
外交
ラーンナーは周囲のほとんどがタイ族に囲まれており、大まかに北方系のタイ族と、南方系のタイ族との交流が外交の中心となった。むろん、元や明の朝貢国であったことも特筆すべき事項である。
北方
北方のタイ族とはおおむね、同じ宗教、似た言語、文化を有しており、きわめて良好な関係にあったといえる。
チエンルン(シップソーンパンナー、景洪)は、ラーンナーの都がチエンセーンにあった時代には、メコン川で繋がっており、極めて良好な関係を保っていた。マンラーイが死に元への朝貢が始まると、両者の関係は密接になり、記録によればセーンムアンマーの妻にチエンルン出身者がいたことが分かっている。また、セーンムアンマーは仏教を広め、ラーンナータム文字を広め、タイルー文字を生み出す基礎を作ったといえる。この間にあった、ケントゥン(チエントゥン)はマンラーイの代に元からの侵攻を避けるために建てられた要塞都市で、朝貢後は、雲南とラーンナーをつなぐ交通の要所になった。
西にあるムアンナーイはマンラーイが子のクルアを送り統治させた地域で、クルアが現地のシャン族から「ナーイ(タイ語: นาย、ご主人様)」と呼ばれていたことから、ムアンナーイと呼ばれるようになった。これらの地域は、ラーンナーの朝貢国であったが、ラーンナーが衰退期に入り国力が衰えると、チエンマイに攻め入ったりもしている。
東方のラーオ人とは極めて密接な関係にあり、そのラーンサーン王国とは親密であった。ダイベトの侵攻に対してティローカラートは援軍を送って撃退しているし、ラーンサーンの王子、セーターティラートはラーンナーの官吏らの招きでラーンナーの王位に上っている。ナーン年代記によれば、スコータイ王国とも、ラーンナー、ラーンサーンはともに親密な関係を築いていたとしている。
ラーンナーが復興されると、今度はこれら北方の町は、ビルマ側の町となり、必ずしも友好的な存在とはいえなくなる。チャクリー王朝はラーンナー王朝に対し、チエンルン、ケントゥン方面への出兵を命じたことがある。1849 - 1850年、ラーンナーはチエンルンの内乱に乗じ出兵しており、また、ラーマ4世(モンクット)もビルマが大英帝国相手に疲弊してきた1852年、ウォンサーティラートサニット親王を差し向け侵攻している。さらに、戦況が好ましくないので1854年にさらに、チャオプラヤー・シースリヤウォンをして援軍に向かわせている。これらの侵攻は、いずれも地元のタイ族の官吏や国王などが要請したものであったが、地元の軍隊の協力が得られず結局は失敗に終わる。
これら北方に対する領土拡大はラーンナーだけでなく、チャクリー王朝にとっても悲願であったといえる。ラーマ5世(チュラーロンコーン)は1884年のいわゆるチャクリー改革により、ラーンナーにモントンを設置するが、このころ官吏はチエンルンをタイの版図に組み入れようとしていた。しかし、1885年大英帝国がビルマへの侵攻を完了すると大国を相手に回す事への躊躇から、シャン族やタイ・ルー族への領土拡大はお蔵入りとなる。
南方
南方のタイ族国家、スコータイ、アユタヤなどとラーンナーは微妙な関係にあった。三者ともピン川、さらに下流のチャオプラヤー川で繋がっており、貿易では密接な関係にあったといえる。スコータイはラームカムヘーン大王の時代、ラーンナーと対等な関係を結ぶまでに成長していたが、新興国家であったアユタヤや、北で勢力を拡大していたラーンナーの間で相対的に地位が低くなっていった。また、ティローカラート王の時代にはアユタヤとラーンナーは旧スコータイの領土をめぐってしのぎを削った。
復興後のラーンナーではチャクリー王朝の時代となり、ラーンナーはビルマとの軍事的な緩衝地帯となった。またラーンナーはチャクリー王朝の朝貢国となる。
- ^ Wyatt, p. 80[要文献特定詳細情報]
- ^ Rātchasomphān & Wyatt 1994, p. 85
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