ラ・フォルビーの戦い 戦後の動き

ラ・フォルビーの戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/26 06:30 UTC 版)

戦後の動き

1245年第1リヨン公会議教皇インノケンティウス4世は新たな十字軍 (第7回) を召集したが、西欧諸国の軍が聖地に大軍を送り込むことは二度決してなかった。エルサレム王国は、ラ・フォルビーの戦いの余波で最もひどく損害を受けた。ヒッティーンの戦い以来、大軍を催すことが出来なかったが、二度と決して攻撃的な活動を行うことができなくなった。ホラズム傭兵はエジプトと仲違いをした後、1246年にアル・マンスール・イブラヒムによってホムス郊外で打ち破られた。これによってアイユーブ朝に長続きする成功をもたらさなかった。バイバルス (後にマムルーク朝のスルタンになった "バイバルス・アル=ブンドクダーリー" とは同名の別人) は、ホラズム傭兵側に加わり、後にアイユーブ軍のサーリフに逮捕され、牢獄で死亡した。

ヒッティーンの戦いがエルサレムの陥落に至った大きな象徴的重要事であったのと同様に、ウトラメールでキリスト教戦力の崩壊を真に決定付けたのはラ・フォルビーの戦いだった。

創作

参考文献

  • Robert Payne (1985). The Dream and the Tomb. Stein and Day/Publishers. ISBN 0-8128-6227-9 
  • Joseph Drory (September 2003). “Al-Nasir Dawud: A Much Frustrated Ayyubid Prince”. Al-Masaq 15 (2): 161–187. doi:10.1080/0950311032000117467. 

座標: 北緯31度36分20.76秒 東経34度32分46.89秒 / 北緯31.6057667度 東経34.5463583度 / 31.6057667; 34.5463583


  1. ^ Marcombe, David (2003). Leper Knights. Boydell Press. pp. 13–14. ISBN 1-84383-067-1 
  2. ^ スルタンであったバイバルス・アル=ブンドクダーリーではない (c.f. From Saladin to the Mongols, The Ayyubids of Damascus 1193-1260, R. Stephen Humphries)
  3. ^ Dougherty, Martin J. (2007). Battles of the Crusades. London: Amber Books. pp. 176–77. ISBN 978-1-905704-58-3 


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