ラリー・ブラウン 生い立ちと選手時代

ラリー・ブラウン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/07 14:03 UTC 版)

生い立ちと選手時代

ニューヨーク州ブルックリンで生まれたブラウンは、早くから父を亡くし貧しい幼少時代を過ごした[1]。ニューヨーク州のロングビーチ高校に進み、ポイントガードとして活躍した後、大学は名門ノースカロライナ大学でプレーをした。しかし、身長が174cmしかなくNBAでプレイするには小さすぎ、下部リーグのNABLでプレイをした。が、1964年にナショナルチームに選ばれて東京オリンピックでアメリカ代表として出場し金メダルを獲得する。

その後、ブラウンはABAで選手として活躍する。1968年にはABAのオールスターでMVPに選出され、オールABAセカンドチームにも選出された。彼のABAでの総アシスト数は2,509になり、これはABAの中で歴代7位の成績であり、 1試合23アシストはABA記録である[2]

コーチキャリア概観

ABA・UCLA時代

選手引退後の1975年からブラウンはコーチとしてのキャリアを歩き始める。最初のコーチとしての仕事はノースカロライナ州のディビットソンカレッジで、夏のオフシーズンの間だけの就任であった[3]。その後ABAに戻り、1979年まで後のデンバー・ナゲッツとなるデンバー・ロケッツやカロライナ・クーガーズ等のコーチを務めた後、UCLAのコーチに就任する。1980年にはUCLAをNCAAチャンピオンシップまで導くが、優勝はならなかった。

その後、ブラウンは2年ほどニュージャージー・ネッツのコーチを務めるが、1983年より1988年までカンザス大学のコーチに就任する。この頃からブラウンのコーチとしての手腕が注目されるようになり、NCAAのコーチ・オブ・ザ・イヤー(1988年)にも選出されるようになった。そして1988年のNCAAチャンピオンシップでカンザス大学を優勝に導いた。

NBA時代

その後、ブラウンはNBAで多くのチームのコーチを務める。彼がコーチを務めたチームはサンアントニオ・スパーズロサンゼルス・クリッパーズインディアナ・ペイサーズフィラデルフィア・セブンティシクサーズデトロイト・ピストンズ[4][5]ニューヨーク・ニックス[6]。2004年にはピストンズをNBAファイナルに導き、優勝を果した。彼は一つのチームに長い間勤めることをしないが、それぞれのチームで成績の向上をもたらした。 またチャンシー・ビラップスラシード・ウォーレス等、ブラウンとの出会いで大きく飛躍した選手も数多くいて、アレン・アイバーソンは彼が世界で最高のコーチだ、と評している。 2006年にはNBAでの通算1000勝も達成した。彼の指導理念は、グレッグ・ポポビッチを筆頭に、次世代のNBAヘッドコーチへと引き継がれている。

オリンピック代表コーチ

ブラウンは2004年アテネオリンピックのアメリカ代表チームのコーチにも選出されたが5勝3敗で銅メダルというアメリカ代表チームとしてはバスケットボールがオリンピックの公式種目になってから約70年の間、男子アメリカ代表がオリンピックで試合を落としたのは1972年ミュンヘンオリンピック1988年ソウルオリンピックでの2試合のみだった。今回のアテネオリンピックでアメリカは3試合に敗れており、過去の負け試合数を一つの大会で上回ることになった。

最近の状況

ブラウンはピストンズを優勝に導いた後、ニックスのコーチに就任するが、そこでは実績を挙げる事ができなかった。シーズン成績を23勝59敗という惨憺たる成績に終わり、チームやマスコミの批判を一身に浴びることになる。特にステフォン・マーブリーとの仲が険悪になり、お互いに非難しあうような状態になる。

2006年6月22日にニックスはブラウンを解雇し、代わりにアイザイア・トーマスが就任する事になった。その後、フィラデルフィア・セブンティシクサーズのゼネラルマネージャー補佐としてアレン・アイバーソンのトレードの仲介役を果した。2007年にブラウンはセブンティシクサーズの副社長に就任し、その後2008年4月29日シャーロット・ボブキャッツのヘッドコーチに就任したが、2010年に退任した[7]

指導方針

弱小チームを次々に建て直しNBA屈指の名将として知られるブラウンは、チームバスケットを好み、ディフェンスを重んじたシステマチックなハーフコートバスケットを主体とする。ブラウン好みの選手とはエゴの少なく、ディフェンシブで、基本に忠実な選手であり、特にエース格と呼ばれるプレーヤーを作らない(唯一生粋のフランチャイズ・プレイヤーであるアレン・アイバーソンは例外であった)。選手全員がボールを共有し、全員に得点させる。3ポイントシュートや派手なダンクは多用せず、セットから確実な2ポイントシュートで得点させる。彼自身の言葉で「正しいバスケット」と表現し、これを見事に体現したのが2003-04シーズンデトロイト・ピストンズであろう。

また完璧主義者で非常に厳しいことでも有名であり、選手やフロントと衝突して数年で退団してしまうケースも目立つ。しかし彼の下で飛躍した選手は数多い。


  1. ^ Paul Taylor. Jews and the Olympic Games: the .... https://books.google.co.jp/books?id=tGcPDXOjxMoC&pg=PA226&dq=%22Jews+and+the+Olympic+Games%22+larry+brown&hl=en&ei=l92gTuijBsTq0gH6gc21BA&sa=X&oi=book_result&ct=result&redir_esc=y 2011年10月26日閲覧。 
  2. ^ The Official NBA Basketball Encyclopedia. Villard Books. (1994). p. 209. ISBN 0-679-43293-0 
  3. ^ “Larry Brown Resigns at Davidson”. Reading Eagle. (July 3, 1969). https://news.google.com/newspapers?nid=1955&dat=19690703&id=98gtAAAAIBAJ&sjid=daAFAAAAIBAJ&pg=5118,1422341. 
  4. ^ PISTONS: Larry Brown Relieved of His Coaching Duties”. Nba.com (2005年7月19日). 2011年1月10日閲覧。
  5. ^ Contract had three years, $18 million left – NBA”. ESPN (2005年7月19日). 2011年1月10日閲覧。
  6. ^ Knicks fire Brown, name Thomas new coach”. ESPN (2006年6月23日). 2011年1月10日閲覧。
  7. ^ Brown returns to Carolina to coach Bobcats”. ESPN (2008年4月30日). 2011年1月10日閲覧。


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