メリーランド植民地 初期の開拓

メリーランド植民地

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/06 05:46 UTC 版)

初期の開拓

メリーランド植民地は南部の植民地だった。ボルティモア卿はカトリックへの改宗者だった。このことは、ローマ・カトリック教会が王室の敵であり、国に対する裏切り者と考えられた17世紀イングランドの貴族にとっては汚点だった。メリーランドでは、ボルティモア卿がイギリスのカトリック教徒にとっての天国を創り、カトリック教徒とプロテスタントが共に調和して暮らせるということを示そうと考え、宗教に関する法を発行して信教に対する寛容さを示しさえした。他の貴族領主と同様、新しい植民地を利益に繋ごうとも期待していた。

カルバート家はカトリック教徒の貴族やプロテスタント開拓者を寛大な土地の利用許可と信教の寛容方針で誘い、メリーランドへの移住者を募った。アーク号とダブ号でメリーランドに渡った当初の開拓者200人の中で大半はプロテスタントだった。実際に、プロテスタントはメリーランド植民地の歴史では多数派であり続けた。

アーク号とダブ号は1634年3月25日にセントクレメント島に到着した。新しい開拓者達はボルティモア卿の弟レナード・カルバートに率いられており、ボルティモア卿はレナードに新しい植民地の知事として務めさせた。150人ほどの生き残った移民がヤオコミコ族インディアンから土地を買い、セントメアリー市を設立した。

1642年、メリーランドはサスケハノック族に宣戦布告した。サスケハノック族はニュースウェーデンの助けを得て1644年にメリーランドを破った。サスケハノック族は1652年に休戦条約が締結されるまでメリーランドと緩慢な交戦状態であり続けた。

メリーランドとイギリス内戦

1654年、第三次イングランド内戦(1649年-1651年)の後、議会軍(プロテスタント)がメリーランドを支配し、ウィリアム・ストーン知事はバージニア植民地に追放された。ストーンは翌春王党派(カトリック)の首長として戻り、アナポリス市に行軍した。

セバーンの戦い(1655年3月25日)と呼ばれるものでストーンは敗れ捕虜になった。ストーンはジョシアス・フェンドール(1628年頃-1687年)と知事を交代させられた。

植民地時代後期とプランテーション経済

1672年、ボルティモア卿はニューヨーク植民地の支配下にあったデラウェア湾西岸のホアキルズ開拓地をメリーランドに含めると宣言した。軍隊が派遣されてこの開拓地を襲い占領した。ニューヨークはその後間もなくオランダに占領されたために直ぐに反応できなかった。メリーランドはオランダがその同盟者であるイロコイ連邦を使ってこの開拓地を再奪取しにくることを恐れた。1674年11月にニューヨークがオランダから取り戻されたときに、この開拓地もニューヨーク植民地に戻した。

17世紀のメリーランド住人の大半は小さな家庭農園で厳しい条件の中を暮らしていた。彼等は様々な果物、野菜、穀物を栽培し家畜を育てる中で、換金作物としてのタバコが植民地経済の中心になった。タバコはときには金として使われ、植民地議会は植民地人が飢えないことを保証するためにタバコ農家にある量のトウモロコシも栽培させる法律を成立させた。

隣接する大きなバージニア植民地と同様、メリーランドも18世紀までにプランテーションの植民地に発展した。1755年までに、メリーランド人口の40%が黒人だった[6]。農園主は広範に年季奉公や受刑労働者も活用するようになった。川の水系を使って内陸プランテーションの生産物が輸出されるために大西洋岸に輸送され、ボルティモアはサウスカロライナ植民地チャールストンに続いて18世紀の南部では2番目に重要な港になった。


  1. ^ 世界の歴史21, p23
  2. ^ Events that Changed America Through the Seventeenth Century By John E. Findling, Frank W. Thackeray, pp. 133-134.
  3. ^ Sparks, Jared (1846). The Library of American Biography: George Calvert, the first Lord Baltimore. Boston: Charles C. Little and James Brown. pp. 16-. https://books.google.co.jp/books?id=RBsNAAAAIAAJ&pg=PR3&dq=Leonard+Calvert&redir_esc=y&hl=ja#PPA16,M1 
  4. ^ Maryland State Manual
  5. ^ Alan Taylor, American Colonies (New York: Viking, 2001), p.136; John Mack Faragher, ed., The Encyclopedia of Colonial and Revolutionary America (New York: Facts on File, 1990), p.254.
  6. ^ John Mack Faragher, ed., The Encyclopedia of Colonial and Revolutionary America (New York: Facts on File, 1990), p.257





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