マンフレッド・マンズ・アース・バンド
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/21 13:50 UTC 版)
概要・略歴
プログレッシブ・ロック期(1971年 - 1975年)
1960年代、南アフリカ共和国出身のオルガニスト マンフレッド・マンは英国に渡り、ブリティッシュビート・バンド「マンフレッド・マン (バンド)」や[2]、ジャズ・ロックバンド「マンフレッド・マン・チャプター・スリー」を結成して活動[3]。
チャプターIII解散後の1971年、マンフレッドはミック・ロジャース(ギター、ボーカル)、コリン・パッテンデン(ベース)、クリス・スレイド(ドラム)と新たなバンドを始める。当初はかつてのバンド名「マンフレッド・マン (バンド)」や、単に「アースバンド」と名乗っていたが、1stアルバム『マンフレッド・マンズ・アース・バンド』(1972年)でデビューした頃に、両方を取り入れた現行名で確定した[4]。
音楽性は、当時まだ普及し始めたばかりの電子鍵盤「モーグ・シンセサイザー」を駆使したプログレッシブ・ロックを展開。当初はアレンジしたカバー曲も含み、特にボブ・ディランの楽曲を好んで採用していた[5]。コンスタントにリリースを重ね、6thアルバム『Nightingales & Bombers』(1975年)の期間までが最もプログレハード色が濃かった[6]。
ポピュラー化 - 以降(1975年 - 現在)
1975年、ボーカルも兼任していたミック・ロジャースが脱退。後任には当初、スコーピオンズに在籍していたウリ・ジョン・ロートにオファーをするも様々な事情により断念[7]。代わりにクリス・トンプソン(ボーカル)、デイヴ・フレット(ギター)の専任プレイヤーが加入して5人編成となり、ここからポピュラー色も加味した路線に移行する。
最初の7thアルバム『静かなる叫び』(1976年)が、バンドにとって初めて全米チャート上位に食い込み、シングルカットしたブルース・スプリングスティーンのカバー曲「光に目もくらみ」が全米1位を獲得する[8]。
その後更にポピュラー化が進み、1980年代には当時の流行に沿ったAOR的サウンドに変化していった。一方で、アフリカの民族音楽を意識した11thアルバム『サムホエア・イン・アフリカ』(1983年)といった異色作も残している[9]。同年からミック・ロジャースが復帰。
1990年代以降は、作品のリリース自体が減少したものの、往年のメンバーも出入りしながらライブ活動を続けている。
- ^ a b c Unterberber, Richie. “Manfred Mann's Earth Band Biography, Songs & Album”. AllMusic. All Media Network. 2021年11月28日閲覧。
- ^ MANFRED MANN プロフィール - ワーナーミュージック・ジャパン
- ^ MANFRED MANN CHAPTER THREE - AIR MAIL RECORDINGS
- ^ マンフレッド・マンズ・アース・バンド ミニレビュー - CDjournal
- ^ マンフレッド・マンズ・アース・バンド / 太陽の化身 ミニレビュー - CDjournal
- ^ マンフレッド・マンズ・アース・バンド / ナイチンゲールとボンバーズ ミニレビュー - CDjournal
- ^ ウリ・ジョン・ロート、スコーピオンズ在籍時 マンフレッド・マンズ・アース・バンドに誘われていた amass 2023年9月19日 2023年10月10日 閲覧
- ^ マンフレッド・マンズ・アース・バンド / 静かなる叫び ミニレビュー - CDjournal
- ^ MANFRED MANN'S EARTH BAND "Somewhere In Afrika" - AIR MAIL RECORDINGS
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