マンサ・ムーサ メッカ巡礼

マンサ・ムーサ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/31 15:49 UTC 版)

メッカ巡礼

13世紀~15世紀初頭のマリ帝国サハラ交易

マンサ・ムーサは1324年メッカ巡礼で有名である。このとき、10トンを越える黄金をラクダで運ばせたという[17]

豪華なムーサの一行は周辺の国家にマリ帝国の富裕さを知らしめた。一行はニジェール川上流の首都ニアニからワラタ(現ウアラタモーリタニア)、タワト(現在のアルジェリアの都市)を通った。途上で訪れたカイロでは莫大な黄金をばらまいたため金相場が暴落し、10年以上の間インフレーションが続いたといわれる[2][3]。ムーサのメッカ巡礼後にマリを訪れたマムルーク朝の学者アル=ウマリー英語版はこの様子を次のように表している。「エジプトでの金の価格は彼ら(マンサ・ムーサ一行)が来たあの年(1324年)までは高かった。1ミスカール英語版(4.25グラム)の金は25ディルハム(通貨単位)を下回ることはなく、常にそれを上回っていた。しかしその時以来金の価格は下落し現在も下がり続けている。1ミスカルの金の価格は22ディルハムを下回った。そのときから約12年たった今日でもこのような状態であるのは、彼らがエジプトに持ち込み、ばら撒いていった大量の金が原因である」[3]

グリオが伝える口頭伝承によれば、王は全ての交易都市と地方から特別な寄付を徴収し、おびただしい従者を従えてニアニを出発したという[16]。また、16世紀初頭にマフムード・カティが述べたところによると「皇帝の隊列の先頭がトンブクトゥについたとき、皇帝はまだ宮廷に留まっていた」と文書に記録された伝承があるという[16]

ムーサの一行は家臣6万人、奴隷1万2千人以上からなっていたと報告されている。奴隷はそれぞれが4ポンドの重さの金の延べ棒を持っていた。家臣たちは絹の服を着て黄金の杖を持ち、旅荷を持たせた馬の隊商を連れていた。ムーサはこの巡礼の旅に必要な一切の費用を出し、お供や家畜らの食料を賄ったとされている[18]

このような豪勢な巡礼の旅を可能にした一つの要素としては、マリ帝国による周辺地域の征服がある。マリ帝国は先代の王からの征服事業により支配地域を拡大していった。マンサ・サクラ(1285年 - 1300年)の治世でのガオ征服はその例である。ムーサ自身も西方のテクルールを征服し、東方はハウサ諸国との境界まで領土を拡大した。このような周辺地域の平定により上記の大規模なメッカ巡礼が可能になった。

アル=マクリーズィーは、ムーサの外見について、次のように書き残している。

彼は褐色の肌をした青年で、好感の持てる顔立ちをし、マーリク派の典礼に通じていて体格もりっぱであった。彼はすばらしい装束をして馬に乗り、取り巻きたちの真ん中に姿を見せ、一万人を下らない臣下を従えていた。そして目を見張るばかりに美しく見事な贈物や下賜品をもたらした。

また、マフムード・カティフランス語版は、『探求者の年代記英語版』に次のように書き残している。

地中海からインダス川に至る広大な地域から、忠実な信者たちがメッカの町にやってくる。皆の目的は一つ、イスラームの聖なる神殿、メッカカーバ神殿で共に礼拝することである。西スーダーンはマリのスルタン、マンサ・ムーサもそのような旅行者の一人だった。彼は自分と従者たちが敢行する長い旅路に向けて念入りに準備した。そして、自らの信仰心を満たすためだけでなく、知識人や指導者を招いて自分の王国が預言者の教えをもっと学べるようにするために巡礼の旅を行うと心に決めた。
マフムード・カティ『探求者の年代記』

注釈

  1. ^ サハーバアブー・バクルとは無関係(アブー・バクルの子孫を称しているという意味ではない)。
  2. ^ 原文はアラビア語。原文からの英訳はほかにも、Levtzion & Hopkins 1981, pp268-269. により提供されている。この引用部分については、Echos of What Lies Behind the 'Ocean of Fogs' in Muslim Historical Narratives も参照されたい。
  3. ^ 原文アラビア語。J.Cuoq. 1975, pp.91-92. の元木(1992)による日本語訳を引用。
  4. ^ 二人の兄弟は1335年に逃亡しガオ王国を再興した(ソンニ王朝)とされるが[21]異説もあり、Charles Monteil は1335年ではなくむしろ1275年であるとしている[22]

出典

  1. ^ 赤阪 1987, pp. 320–322.
  2. ^ a b クーリエ・ジャポン,2013年3月号,P13
  3. ^ a b c 内藤 2013, pp. 11–15.
  4. ^ イブン・バットゥータ.
  5. ^ ニアヌ 1992, p. 198.
  6. ^ Hunwick 1999, p. 9.
  7. ^ a b Bell 1972, pp. 224–225.
  8. ^ Levtzion 1963, p. 353.
  9. ^ a b c d e f ニアヌ 1992, pp. 188–193.
  10. ^ 赤阪 2010, p. 198.
  11. ^ a b 苅谷 2013.
  12. ^ a b ニアヌ 1992, p. 249.
  13. ^ Levtzion 1963, pp. 341–347.
  14. ^ ニアヌ 1992, p. 217.
  15. ^ Levtzion 1963, p. 347.
  16. ^ a b c ニアヌ 1992, p. 215.
  17. ^ 「改訂版 世界の民族地図」p241 高崎通浩著 1997年12月20日初版第1刷発行
  18. ^ Goodwin 1957, p. 110.
  19. ^ ニアヌ 1992, pp. 215–216.
  20. ^ Delafosse 1912, pp. 72–74(volume.2 l'histore)
  21. ^ Delafosse 1912, p. 73(volume.2 l'histore)
  22. ^ Jean Rouch Les Songhay L'Harmattan, 2007 ISBN 2747586154, 9782747586153
  23. ^ African Legends.
  24. ^ a b 赤阪 2010, pp. 244–248.
  25. ^ De Villiers & Hirtle 2007, p. 70.
  26. ^ ニアヌ 1992, pp. 216–218.
  27. ^ a b De Villiers & Hirtle 2007, p. 74.
  28. ^ a b 宇佐見 1996, pp. 57–58.
  29. ^ De Villiers & Hirtle 2007, pp. 87–88.
  30. ^ Goodwin 1957, p. 111.
  31. ^ De Villiers & Hirtle 2007, pp. 80–81.
  32. ^ a b Levtzion 1963, pp. 349–350.
  33. ^ Bell 1972, p. 224.
  34. ^ Une pièce d’or pour célébrer le cinquantenaire du Mali” (French) (2010年7月15日). 2015年11月11日閲覧。


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