マフムト1世 マフムト1世の概要

マフムト1世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/20 01:50 UTC 版)

マフムト1世
Mahmut I
オスマン帝国24代皇帝
在位 1730年9月20日 - 1754年12月13日
出生 1696年8月2日
死去 1754年12月13日
後継 オスマン3世
王家 オスマン家
王朝 オスマン朝
父親 ムスタファ2世
母親 サリハ・スルタン
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生涯

1730年、パトロナ・ハリルの乱で叔父が廃位されて皇帝に擁立される。当初は大人しくしていたが、翌1731年にパトロナ・ハリルらイェニチェリを処刑して反乱を鎮圧、実権を握ると叔父が推進していた西欧化の改革を進めた。パトロナ・ハリルの乱で中断されていた建築事業の一部を手がけて完成させ、フランス人亡命者のクロード・アレクサンドル・ド・ボンヌヴァルを重用して軍事改革に取り組んだ。

外交では先代から続いていたイランサファヴィー朝との戦争を継続、1732年タフマースブ2世と一旦和睦したが、ナーディル・シャーがタフマースブ2世を追放してアフシャール朝を開き戦争を続行、イラクメソポタミアで交戦したが長期化、1747年にナーディルが暗殺されると現状維持を条件に和平条約が締結された(アフシャール戦役)。

一方、1735年から新たな敵ロシア帝国およびその同盟国オーストリア帝国との戦争(ロシア・オーストリア・トルコ戦争)を始めた。戦争は4年に及び、ロシアには敗れたもののオーストリアに対する反撃に成功しベオグラードを奪還、1739年ベオグラード条約でオーストリアに奪われた領土を一部奪還する外交的成功を収めた。イラン戦線も終結してからはオスマン帝国は戦争を控え、1768年露土戦争が始まるまで平和を保った[1]

しかし、内部では徐々に腐敗が生じるようになり、常に平和を望んでいたというマフムト1世は、宦官ハジ・ベシル・アーの強い影響下にあった。またマフムト1世の治世以後、ワラキア公とモルダヴィア公にファナリオティスを起用することが定着した。イェニチェリの腐敗も進み、イェニチェリ空席ポストの給料着服が行われたり、1740年にイェニチェリの株売買を認めると富裕層が買い占めたり、親衛隊としてのイェニチェリの軍事力は低下した。地方の分権化も徐々に進み、徴税請負制が終身契約として有力者に競売に出されると、購入者がそれを元に徴税をいくらか自らの収入に入れたり、土地の売買と開墾で地方に根付いたため、後にアーヤーンと呼ばれる地方有力者の台頭でオスマン帝国の支配は揺らいでいった[2]

1754年、金曜礼拝から戻った直後に心臓発作のため58歳で死亡、弟のオスマン3世が後を継いだ。

参考文献

関連項目




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