ボニーとクライド ボニーとクライド

ボニーとクライド

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/21 06:20 UTC 版)

ボニーとクライド

ボニーとクライドの最初の出会いについてはいくつかの証言があるが、最も信憑性が高いのは、1930年1月5日、ウェスト・ダラスのハーバート通りにあるクライドの友人クラレンス・クレイの家で出会ったというものである[13]。このときクライドは20歳、ボニーは19歳であった。二人ともすぐに恋に落ちた。ボニーはクライドの忠実な仲間として多くの犯罪を実行し、激しい死を迎えることとなった。

1932年 初期の強盗と殺人

1932年2月にクライドが出所した後、彼はもと囚人仲間のラルフ・ファルツと組んで主に店舗やガソリンスタンドで一連の強盗を始めた[17]。彼は、服役中に受けた虐待に対するイーストハム刑務所への復讐を人生の目標としており、そのための十分な資金と武器を集めることを目的としていた[18]

ボニーはこの年4月から犯罪行為に加わることとなった[5]

4月19日、ボニーとファルツはカウフマンで銃器を盗むために強盗を試みたが失敗し逮捕された[19]。数ヶ月後、ボニーは起訴に至らず釈放された一方、ファルツは裁判で有罪となり服役することになった。彼はギャングに戻ることはなかった[19]

4月30日、クライドは逃走ドライバーとして商店の強盗を行った。その際に店主が射殺された[20]。彼は車の中にいたが、店主の妻により、発砲した犯人の一人として特定された[21]

8月5日、クライド、ハミルトン、ロス・ダイアーがオクラホマ州ストリングタウンで密造酒を飲み泥酔していたところに保安官と副保安官が近づき、酒に関して尋問した。これに対してクライドらは発砲し、副保安官を殺害した[22]。クライドと彼のギャングが殺した最初の警官となった。

10月11日、テキサス州シャーマンでの強盗の際に店主を殺害したとされるが、一部の歴史家は疑わしいと考えている[23]

1932年、クライドの家族と幼少期からの友人であったウィリアム・ダニエル・ジョーンズが16歳でギャングに加わった。クリスマスの日にジョーンズとクライドはテンプルで自動車強盗を行い、持ち主を殺害した[24]

1933年1月6日、クライドはタラント郡副保安官マルコム・デイヴィスを殺害した[25]

1933年 バック夫妻がギャングに参加

1933年3月22日、服役中だったクライドの兄バックが恩赦を受け出所し、妻のブランチとともにミズーリ州ジョプリンに隠れ家を構え、ボニー、クライド、ジョーンズと生活を共にするようになった[14][26]

葉巻を咥えてポーズを取るボニー・パーカー。1933年、警察が押収したフィルムを現像したもの

4月13日、警察は2台の車に5人の部隊を編成し、酒類密輸入の疑いで彼らの隠れ家に向かった。バロー兄弟とジョーンズは発砲し、刑事を殺害、巡査に重傷を負わせた[27][28]。銃撃戦の末、彼らは逃走に成功した[29]。隠れ家の捜索で、大量の武器、ボニーの手書きの詩、数巻の未現像フィルムの入ったカメラなどが見つかった[29]。フィルムを現像したところ、バロー、ボニー、ジョーンズが互いに武器を向けてポーズを取っている写真、ボニーが歯で葉巻をくわえ、手にピストルを持っている写真などであった。これらの写真によりバローギャングはアメリカ中の一面を飾るニュースとなった。特にボニーが葉巻と拳銃でポーズをとっている写真は人気となり、ジェフ・グインは著書『Go Down Together: The True, Untold Story of Bonnie and Clyde(ボニーとクライドの真実の物語)』の中で、「新しい犯罪のスーパースターであり、最も刺激的なのは、若く野性的な無法者の二人が間違いなくベッドを共にしていることだ」と表現した[30]

グループはその後、テキサスからミネソタまで北上し、いくつかの銀行強盗を働いたとされるが異論もある[31]

また、警察官や強盗の犠牲者を連れ去りながらも、時には家へ戻るための金を渡して、最終的には家から遠く離れた場所で解放した[1][32]。このような話は、暴力的なエピソードと同様にヘッドラインを飾った。

ショットガンを構えながら、クライドの腰の拳銃に手を伸ばすボニー

ボニーらの写真は大衆を楽しませたが、ギャングには絶望と不満をもたらした。レストランやモーテルは安全な場所ではなくなり、キャンプファイヤーでの食事や冷たい川での入浴を余儀なくされた。1台の車に5人が四六時中居合わせる状況は不和を生み出し、4月末にはドライバー役のジョーンズが他のメンバーを置き去りにするという件も生じた。

6月10日、テキサス州ウェリントン付近でクライドが運転中、橋が建設中であるとの警告標識を見逃して車ごと峡谷に転落した[11][33]。この事故によりボニーは右脚に重度の火傷を負った[33]。ボニーはほとんど歩くことができない状態だった。付近の農民によって救出されたが、彼らが犯罪者だと気づいた農民の一人が警官を呼んだため、到着した警官を木に括り付けて逃走した[33]

バックとジョーンズは、アーカンソー州アルマで強盗を失敗し、執行官ヘンリー・D・ハンフリーを殺害した[34]

7月、ギャングはミズーリ州プラットシティの南にあるツーリストキャビンにチェックインした[35]。南側には、ハイウェイパトロールの間で人気のレストランレッドクラウン・タバーンがあった。オーナーは、ブランチが3人の客としてチェックインしたにもかかわらず5人が車から降りるのを確認したこと、支払いを紙幣ではなく硬貨で行ったこと、キャビンの窓に新聞を貼っていること、典型的でない服装などを不審に思い、ハイウェイパトロールのウィリアム・バクスター警部に一行のことを話した[36]

クライドとジョーンズが包帯や薬剤、食料品を購入するため町へ行った際、薬剤師から連絡を受けた保安官が警部に連絡し、装甲車とともに武装警官をキャビンへと導いた[37]。銃撃戦となったが、クライドの自動小銃は強力で、ギャングは逃走に成功した。バックは銃弾で額の頭蓋骨の骨に大きな穴を開けられ負傷した脳を露出し、ブランチの両目はガラス片で失明寸前となった[38]。そのボニーとクライド、ジョーンズは徒歩で逃走した[39]。バックは背中を撃たれ、妻とともに警官に捕らえられた。バックは頭の傷と肺炎のため、5日後にアイオワ州ペリーのキングス・ドーターズ病院で手術を受けた後、死亡した[40]

1933年、愛車のフォード・V8とクライド・バロウ

その後も、残った3人組はさまざまな地域で武装強盗を続けていた。

9月上旬、ギャングは4ヶ月ぶりに家族に会うため、危険を冒してダラスに向かった。ジョーンズは彼らと別れ、母親が引っ越したヒューストンへ向かったが[41]同地で逮捕された。

11月22日、彼らはテキサス州サワーズ付近で家族に会おうとした際、待ち構えていた警官らに発砲を受けた。逮捕はまぬかれたがボニーとクライドは足に弾丸を受けた[42]

11月28日、ダラスの大陪審は、その年の1月のマルコム・デイヴィス副保安官の殺害について、ボニーとクライドに対する殺人起訴状を提出した。それは、ボニーにとって最初の殺人による令状だった[43]

1934年 最期の逃走

1934年1月16日、クライドはイーストハム刑務所から数人の受刑者を脱獄させた[18]。テキサスの評判は地に落ち、クライドは彼の最大の目標、テキサス更生局への復讐を達成したようにみえた。

バロウ・ギャングのメンバーのジョー・パーマーは、逃亡中にジョー・クロウソン少佐を撃ち、クロウソンは数日後に病院で死亡した[44]。このことにより、テキサス州と連邦政府は全力でボニーとクライドを追い詰めることとなった。刑務所長のリー・シモンズは、脱獄に関わった者は全て殺すと約束したと伝えられている[18]。結局、ギャングを裏切り、クライドとパーカーの待ち伏せを仕掛けることによって命を守ったメスヴィンを除く全員が殺された。

テキサス州矯正局は元テキサス・レンジャー隊長のフランク・ハマーに連絡を取り、バロウ・ギャングを追い詰めるよう説得した。彼はテキサスハイウェイパトロールの警官としての任務を受け入れた。

1934年4月1日の復活祭の日曜日、テキサス州グレープバイン(現在のサウスレイク)近くのルート114とダブロードの交差点で、ハイウェイパトロールのH・D・マーフィーとエドワード・ブライアント・ウィーラーが、運転手が助けを必要としていると考えてオートバイを停めた。クライドとメスヴィンまたはボニーがショットガンとハンドガンで発砲し、両方の警官を殺害した[45][46]。目撃者の証言では、ボニーが致命的な発砲をしたとされ、この物語は広く報道された。この事件は次第に誇張して語られるようになり、世論に影響を与えた。ボニーがマーフィーの頭部を撃ち、その頭が地面で「ゴムまりみたいに弾む」と言ったと伝わっている[47]。バロウ・ギャングの駆除を求める国民の声は大きくなった。

クライドとメスヴィンがオクラホマ州のコマース付近で60歳の警官ウィリアム・キャンベルを殺害したとき、世間の敵意はさらに増した[48]。ダラス・ジャーナルは社説で、「予約済み」と書かれた空の電気椅子に「クライドとボニー」という言葉を添えた漫画を掲載した[49]

待ち伏せと死

銃撃を受けた車

1934年5月、クライドには、4つの州で強盗、自動車窃盗、窃盗、逃亡、暴行、殺人の複数の訴因で16の令状が発行されていた[50]。2月12日に一味を追跡し始めていたハマーは、ギャングの動きを研究し、警官が他の管轄区域に逃亡者を追跡することを妨げる「州境」ルールを利用して、中西部の5つの州の端を迂回する円を描いていることを発見した[51]。ギャングの行動は一貫していたので、ハマーはその道筋を描き、どこに行くかを予測した。ギャングの旅程は家族訪問が中心で、ルイジアナにいるメスヴィンの家族に会う予定だった。ハマーの警官隊は6人で構成されていた。テキサス州警官のハマー、ヒントン、アルコーン、ゴールト、ルイジアナ州警官のヘンダーソン・ジョーダンとプレンティス・モレル・オークレイの6人であった[52]

5月21日、テキサスから来た4人の追っ手はシュリーブポートにいたが、クライドとボニーがその晩にビエンビルパリッシュのアイビー・メスヴィンを訪問する予定であることを知った。警官隊は、ルイジアナ州道154号線をギブスランドからセイルズに向かって南下し、待ち伏せをした。

5月23日午前9時15分頃、高速で接近してくる車の音を聞いた。報告書によると、彼らはその朝、メスヴィンにトラックを路肩に置くように説得した。クライドが立ち止まって話をするのを期待して、彼の車を茂みの中の警察隊の位置の近くに置いたのだ。その車はクライドが運転するフォードV8で、期待通りスピードを落とした。6人の警官は、車が動いている間に発砲した。クライドは頭を撃たれて即死し、ボニーが悲鳴を上げるのを聞いたと報告している[53]。警官たちは約130発を発射した[54][55]。2人は長年、法執行者との対決で何発もの銃弾を生き延びてきた。この日までに受けた傷のうち、どれが彼らの命を奪っていたとしても不思議はなかった。

ボニーとクライドが射殺された州道

ヒントンとアルコーンが行った供述によると、6人の警官はそれぞれショットガン、自動小銃、ピストルを持っていた。警官隊は自動小銃で発砲し、それから散弾銃を使った。ショットガンを撃った後、車は我々を追い越して、50ヤードほど先の溝へ突っ込んで行った。もうちょっとでひっくり返るところだった。念には念を入れ、車が止まってからも撃ち続けた[56]

待ち伏せの直後に副保安官の一人が撮影した実際の映像では、車に112の弾痕があり、そのうち約4分の1がボニーとクライドに命中していた。教区の検視官J・L・ウェイド博士による公式報告書にはクライドの体に17の入口の傷、ボニーの体に26の傷があり、それぞれにいくつかの頭部とクライドの脊柱切断の傷が含まれていた[42]。すべての弾痕のために遺体を防腐処理するのに苦労した[42]

銃撃の場にはすぐに群衆が集まり、記念品を持ち帰ろうとする者もいたが、警官隊が人々を車から遠ざけた[57]

警官隊は、死体が乗ったままのフォードをアルカディアの家具店&葬儀屋まで牽引した。この町の人口は数時間で2千人から1万2千人に膨れ上がったといわれている。好奇心旺盛な群衆は、列車、馬、バギー、飛行機で到着した。ビールは通常1本15セントで売られていたが、25セントに跳ね上がり、サンドイッチはすぐに売り切れた[58]。クライドは35レミントンモデル8で頭を撃たれていた。ヘンリー・バロウは息子の遺体を確認した後、家具売り場のロッキングチェアに座って泣いていた。

1933年にクライドらが誘拐したH.D.ダービーとソフィア・ストーンが身元確認のために呼ばれた。誘拐事件の際、ダービーが葬儀屋であることを知ったボニーは、いつか自分も世話になるかもしれないと言ったと伝えられており、実際にダービーは防腐処理を手伝った[59]

ボニー・パーカーの墓「花は太陽の光と露によってより甘くなるように、この古い世界はあなたのような人々の命によってより明るくなるのです」

葬儀・埋葬

ボニーとクライドは並んで埋葬されることを望んだが、パーカー一家はそれを許さなかった。母親は家に連れて帰るという彼女の最後の願いを叶えたかったが、パーカー家を取り囲む暴徒がそれを不可能にした。ボニーの葬儀には2万人以上が出席し、彼女の家族がボニーの墓にたどり着くことは困難だった。アレン・キャンベル医師は、プリティボーイ・フロイドジョン・デリンジャーからのカードとされるものも含めてあらゆる場所から花が届いたと回想している。ボニーとクライドの突然の最期はダラスだけで50万部の新聞を売った[60]。ボニーの遺体は1945年にダラスの新しいクラウンヒル墓地に移されたが、フィッシュトラップセメタリーで埋葬された。

ダラスの両葬儀場の外には、遺体を見る機会を求めて何千人もの人々が集まった[59]。バローの個人葬は5月25日の日没に行われ、ダラスのウェスタンハイツ墓地に弟のマーヴィンと並んで埋葬された。バロー兄弟は、クライドが選んだ墓碑銘と名前の入った一つの花崗岩の標柱を共有している。

クライドとバック・バロウの墓「亡くなっても忘れはしない」

1934年の夏までに、新しい連邦法が銀行強盗と誘拐を連邦犯罪とした。FBIによる地元当局との連携が強化され、さらにパトカーに双方向無線機が搭載されたことで、一連の強盗や殺人を実行することは、ほんの数ヵ月前よりも困難となった。

ボニーの姪は、ボニーをクライドの隣に埋葬するよう運動している[61]


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