パウル・ゲオルク・フォン・メレンドルフ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/25 03:42 UTC 版)
主要著作
- (with Otto Franz von Möllendorff.) Manual of Chinese Bibliography, Being a List of Works and Essays Relating to China. Shanghai, London: Kelly & Walsh, Trübner & co., 1876.
- "Essay on Manchu Literature." Journal of the North China Branch of the Royal Asiatic Society 24, no. 113 (1889-90): 1-45.
- A Manchu Grammar: With Analysed Texts. Shanghai, 1892.
- "Die Juden in China." In Monatsschrift für Geschichte und Wissenschaft des Judentums. (1895): 327-331
- Ningpo Colloquial Handbook. Shanghai: American Presbyterian Mission Press, 1910.
脚注
参考文献
- Lee Yur-Bok. West Goes East: Paul Georg Von Möllendorff and Great Power Imperialism in Late Yi Korea. Honolulu: University of Hawaii Press, 1988.
- 海野福寿『韓国併合』岩波書店〈岩波新書〉、1995年5月。ISBN 4-00-430388-5。
- 呉善花『韓国併合への道』文藝春秋〈文春新書〉、2000年1月。ISBN 4-16-660086-9。
- 糟谷憲一 著「朝鮮近代社会の形成と展開」、武田幸男編集 編『朝鮮史』山川出版社〈世界各国史2〉、2000年8月。ISBN 4-634-41320-5。
関連項目
注釈
- ^ 壬午軍乱は1882年7月23日、大院君らの煽動を受けて、漢城で起こった閔氏政権および日本に対する大規模な朝鮮人兵士の反乱。日清両国が軍艦・兵士を派遣し、清国軍が大院君を捕縛し、身柄を拘束したことで収束した。
- ^ 壬午軍乱発生当時、忠州にかくまわれていた閔妃は軍乱収束後王宮にもどったが、その際ひとりの巫女をともなっていた。巫女は卑賎の出身であったが、閔妃の王宮帰還を予言するなどして閔妃の歓心を得て宮廷の賓客として遇された。やがて閔妃はこの巫女を厚く崇敬して毎日2回の祭祀を欠かさず、一族や高官にもこれを勧めたため、これにかかる費用は国庫をゆるがすほどの莫大なものとなったといわれる。呉(2000)pp.75-76
出典
固有名詞の分類
清朝の人物 |
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