スロバキア語の歴史 近代史

スロバキア語の歴史

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/17 13:57 UTC 版)

近代史

1870年代

オーストリア・ハンガリー帝国の成立(1867年)以後、マジャール化政策がハンガリーで再び始まった。1860年代に設立されていた3校のスロバキア系ギムナジウム[2]を、ハンガリー政府は1874年-1875年に閉鎖した。、

1907年

アポーニー法で、ハンガリーの政府は、公式にすべてのスロバキア語とドイツ語の小学校をハンガリー語の学校に変更した。そして、スロバキア語とドイツ語は外国語として週に1時間だけ教えることを認められた。

1918年 - 1992年(第二次世界大戦時を除く)

1918年のチェコスロバキアの成立に伴い、スロバキア語は消滅の可能性から救われ(1907年の項参照)、歴史上初めて公用語とされた(チェコ語とともに)。同時に、この言語(特に単語)はチェコ語から強い影響を受けている。これは主に、チェコ人の教員および事務官がスロバキアで活動し(スロバキア語で教育を受けたスロバキア人がいなかったため)、スロバキア語なしで専門用語がつくられた、チェコスロバキアの最初の数年間持続し、第二次世界大戦の間、主なテレビ番組がチェコ語で放送された時も同様であった。

1959年 - 1968年

6巻の『スロバキア語辞書』(SSJ)が公表された。(オンライン・バージョン)。

1993年

チェコスロバキアスロバキアチェコに分かれる。 スロバキア語はスロバキアの公用語になる。チェコ語に関係したスロバキア語の変化はなお続いている。その理由として、近隣の文化であること、教育的な接触が1992年以降も続いていること、および経済的理由でスロバキアの市場にはチェコ語で書かれた本が1990年以前より増えていることがあげられる。


  1. ^ 井出匠「マチツァ・スロヴェンスカーの理念と実践:スロヴァキア国民形成運動におけるその位置づけ」『東欧史研究』29号、2007年、21ページ。
  2. ^ 井出匠「マチツァ・スロヴェンスカーの理念と実践:スロヴァキア国民形成運動におけるその位置づけ」『東欧史研究』29号、2007年、15ページ。


「スロバキア語の歴史」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「スロバキア語の歴史」の関連用語

スロバキア語の歴史のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



スロバキア語の歴史のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのスロバキア語の歴史 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS