スコット・ジョプリン スコット・ジョプリンの概要

スコット・ジョプリン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/26 18:45 UTC 版)

スコット・ジョプリン
Scott Joplin
基本情報
生誕 1867年1868年
アメリカ合衆国 テキサス州
死没 (1917-04-01) 1917年4月1日(49歳没)
アメリカ合衆国 ニューヨーク州
ジャンル クラシック音楽
ポピュラー音楽
ラグタイム
職業 作曲家
ピアニスト
担当楽器 ピアノ

生涯

生い立ち

黒人元奴隷農夫のジャイルズ・ジョプリン(Jiles Joplin)とフローレンス・ギヴェンス(Florence Givens)の息子として生まれた[1]。母もアフリカ系アメリカ人だったが、生まれつき自由民だった[1]

誕生日は長年にわたり、1868年11月24日であると考えられてきたが、ラグタイム研究家のエドワード・バーリン(Edward Berlin)の研究により誤りであることが判明、現在では1867年7月から1868年4月までの間に出生したのではないかという説が有力である。

出生地はテキサス州東部の州境地帯(アーカンソー州 - ルイジアナ州 - テキサス州)に位置するカス郡の郡都・リンデン(Linden、人口およそ2万4千人)付近。かつては、1868年11月24日ダラスリトルロックのほぼ中間に位置する同州ボウイ郡テクサカーナTexarkana,TX)で生まれたのだと考えられてきた。

1875年、家族と共にテキサス州テクサーカナに移り住んだ。早くから音楽的才能が現れ、バンジョーを上手くこなした。両親は彼の才能を伸ばすことに力を貸し、特に母は生活費を削ってピアノを買い与えた。この時代の黒人は教育の機会が与えられず、仕事も限られていたので、「何か自分の身を助ける才能があれば」と願ったのだと考えられる。1876年にはJulius Weissの指導で音楽を習う(ピアノは独学と言われるが、10代でダンス音楽の演奏家になった)。

独り立ち

1882年ごろに親元から離れ、ミシシッピー川流域のサロンの1つ「メイプル・リーフ・サロン」で演奏、白人の音楽出版者ジョン・スターク英語版に出会う。1890年ごろにセントルイスに移り住み、アメリカ中西部のサロンや売春宿で演奏した。1893年にはシカゴのコロンビアン・エクスポジション隣接のスポーツ・エリアで演奏した。1894年にミズーリ州セダリア(Sedalia)へ移り住み、そこから8人の仲間と共にテキサス・メドレー・カルテットを編成し、ニューヨークまで演奏旅行をした。

ラグ

1895年、クラシック音楽のピアニスト・作曲家としての人生を歩みたいと願い、黒人のためのジョージ・R・スミス大学で学ぶ。彼はヨーロッパのクラシック音楽とアフリカ系アメリカ人のハーモニーとリズムを結びつける音楽を追求していた。これは後日、音楽ジャンル『ラグ』として認知されるようになった。

1896年9月16日、ミズーリ・カンザス・テキサス鉄道英語版の宣伝のためにテキサス州ウェーコ近くで行った人為的な車両同士の正面衝突クラッシュ・アット・クラッシュ英語版(衝撃によるボイラー爆発で5万人の観客の一部に破片が飛び、2名死亡と重傷者の出る大事故になった)にジョプリンは作曲へのインスピレーションを感じ、『ザ・グレート・クラッシュ・コリジョン・マーチ The Great Crush Collision March』を作曲した。その後、1899年ごろから1914年まで15年間にわたって多くのラグを作曲した。

1900年にセントルイスに移り住み、ジョン・スタークと親交を深めた。スタークは彼の作品『メイプル・リーフ・ラグ Maple Leaf Rag』を発売し、大成功を収めた。1901年にはスコット・ハイデン(Scott Hayden)と共に『サンフラワー・スロウ・ドラッグ Sunflower Slow Drag』を作曲、さらにハイデンの妹ベルと結婚したが、彼女はジョプリンの音楽に理解が無く、2人は1903年に離婚した。1902年に代表作『ジ・エンターテイナー The Entertainer』を作曲、1903年にオペラ『ゲスト・オブ・オナー(名誉ある客) A Guest of Honor』を作曲したが、このオペラは失われて現存しない。

晩年

1907年、33歳のロッティー・ストークス(Lottie Stokes)に出会い、その後10年を幸せに送った。ストークスはベルと違い、音楽を愛していた。1911年にニューヨークへ移り住み、オペラ『トゥリーモニシャ Treemonisha』を作曲。

1915年、オーケストラの代わりに彼のピアノでの演奏でオペラが公演されたことが一度あったが不評に終わった。後にベルが述べたところによると、それがジョプリンにとって精神的に相当な衝撃であった。

1917年1月中旬、梅毒により精神・肉体に異常をきたし、ブルックリンの病院に入院。晩年は認知症が発現し入退院を繰り返していた。同年4月1日に死去した。死因は直接的には肺炎ということであったが、実際には梅毒による複合的な身体機能の劣化であると考えられる。

死後

ジョップリンの自宅 現在は博物館(ミズーリ州セントルイス)

彼の存命中、版権から得られる収入はあったが、重要な作曲家としては認知されず、1970年代になってようやくその音楽が見直された。

1973年、映画『スティング』の中で、彼の音楽が使われ大ヒット、音楽部門でアカデミー賞を得た。これと前後してピアノ演奏によるレコードが次々と登場し、多くは全米のクラシック音楽セールスで上位に入った。1976年、彼のオペラ『トゥリーモニシャ Treemonisha』が演奏され、ピューリッツァー賞を得た。

現代ではセントルイスでは彼が2年間住んでいた家が "Scott Joplin State" という博物館になっており、6ドル払うと見学出来るようになっている。


  1. ^ a b Berlin, Edward A. (1999). "Joplin, Scott". American National Biography (英語) (online ed.). New York: Oxford University Press. doi:10.1093/anb/9780198606697.article.1800645 (要購読契約)


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