ジャック・アタリ 生い立ち

ジャック・アタリ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/12 02:59 UTC 版)

生い立ち

1943年11月1日、フランス領アルジェリアで双子の兄弟ベルナール・アタリと共にユダヤ人家族のもとに生まれる。父サイモン・アタリは都市アルジェでの香水店経営(Bib et Babショップ)で成功を収めた独学者だった。アルジェリア独立戦争が始まって2年後にあたる1956年、父は家族と共にパリへの居住を決めた。

双子のジャックとバーナードはパリ16区にあるリセ・ジャンソン=ドゥ=サイイで学び、そこでのちに政治家となるジャン=ルイ・ビアンコフランス語版ローラン・ファビウス元仏首相と出会う。1966年、ジャックはエコール・ポリテクニックを卒業、また、パリ国立高等鉱業学校パリ政治学院エリート養成で名を馳せた国立行政学院も卒業した。

1968年、ニエーヴル県でのインターンシップ中、3年前に面識のあったフランソワ・ミッテランと2度目の出会いを果たす。

1972年、パリ・ドーフィン大学で経済学の博士号を取得した。哲学者ミシェル・セールは博士号の審査員のうちのひとりだった。

1970年、27歳で仏国務院のメンバーとなる。

1972年、29歳で科学アカデミーから賞を授与され、最初の2冊の本を出版した。

教授歴

1968年から1985年までパリ=ドフィーヌ大学、エコール・ポリテクニーク国立土木学校で経済学を教えた。

ドフィーヌにある彼の研究室IRISはのちに学者となる若手研究者がつどった。

政治歴

1973年12月、ミッテランとの密接なコラボレーションがはじまる。1974年、大統領選挙での運動を指揮し、 1981年、ミッテランが大統領に選ばれると、特別顧問に指名された。このときより大統領のため、経済学、文化、政治、彼が最後に読んだ本などのメモを書き、内閣会議、国防会議、二国間での首脳会談に出席した。ミッテランはG7サミットのための「シェルパ」(国家元首代理人)の役割を委ねた。

レイモンド・バール元首相、ジャック・ドロール欧州委員会元委員長フィリップ・セガン元会計検査院院長、ラガルデール複合企業)創立者ジャン=リュック・ラガルデール、多国籍企業ダノン創立者アントワヌ・リブー、哲学者ミシェル・セール、俳優コリューシュなどと交流し、大統領にジーン・ルイス・ビアンコとアラン・ブーブリルを推薦した。また、フランソワ・オランド元大統領や仏初の女性大統領候補セゴレーヌ・ロワイヤルなどフランス国立行政学院の卒業生たちを彼のチームに加えた。

1982年、「シェルパ」としてベルサイユG7サミット(第八回先進国首脳会議)、1989年、アーチG7サミット(第十五回先進国首脳会議)を組織した。

1989年7月4日、フランス革命200周年記念式典の組織に参加した。

1997年、政治家クロード・アレグルの依頼により、LMDモデルを導入した高等教育学位制度の改革を提案した。

2008年、2010年、サルコジ大統領から経済成長促進のための改革を目的とする超党派委員会の議長を務めるよう求められた。

2013年、オランド大統領に提出された報告書の中で「ポジティブ経済」の概念を主張した。この考えは当時の経済大臣エマニュエル・マクロンが提案した法律の規定のいくつかに影響を与えた。

2011年4月7日、米国のスミソニアン協会のウッドローウィルソン国際学術研究者センターは、ワシントンDCでPlaNet Financeの創設者としてアタリに、ウッドサービスウィルソン賞を授与した。

国際的な業績と論争

1979年、国際的なNGO団体、飢餓撲滅行動(Action Contre La Faim)を共同設立した。

1984年、新技術開発を旨としたプログラムEUREKAを創立に関わった。

1989年1月、バングラデシュでの洪水被害に対する国際行動計画を開始した。

1989年8月、ミッテラン大統領2度目の任務中、政治を断念、エリセ宮殿を去る。ロンドンで欧州復興開発銀行(EBRD)を設立、初代総裁に就任した。ベルリンの壁崩壊以前の1989年6月、東ヨーロッパ諸国の復興支援を旨とし、この機関の構想をはじめていた。アタリはパリ交渉会議の議長を務めており、それが復興開発銀行設立へとつながった。彼の指導の下、EBRDは原子力発電所の保護、環境保護、インフラの整備、民間部門の競争力強化、さらに民主主義への移行支援を目的とする投資を促進した。

1991年、ジョン・メジャー英首相の意向に反し、ミハイル・ゴルバチョフをロンドンのEBRD本部に招待した。ロンドンサミットに出席していたG7の国家元首に、旧ソビエトの国家元首をブッキングさせた。ジョン・メジャーとのあいだで繰り広げられた激しい電話でのやり取りの後、英国報道機関は批判を開始、アタリの機関運営への疑念をひろげた。EBRDの非効率的な運営実態は衝撃を与えた[3]。実態は仏ジャーナリストたちによって追及された。 アタリは自身の著書「CétaitFrançoisMitterrand」のなかの一章で自らの立場を説明した。アタリは機関を去り、理事会は彼に最終的な解任を与えた。

1993年、ミッテラン大統領の許可なく、秘密の書庫と大統領の別の本のための文章を複製したとされる名誉毀損の訴訟に勝訴した。アタリがその本を校正し、訂正する権限を与えられていたことが認められた。

1998年、500名ものスタッフを雇用し、80カ国以上で活動する非営利団体Positive Planetを設立、1万人の小規模金融参加者とステークホルダーに資金提供、技術支援、アドバイスサービスを提供している。Positive Planetは仏郊外の貧困問題でも活動している。

2001年、アタリは「濫用され、取引に影響を与えた資産隠蔽」の容疑で捜査を受けた。2009年10月27日、パリの治安裁判所から赦免された[4]


  1. ^ Décret n° 2010-223 du 4 mars 2010 relatif à la commission pour la libération de la croissance française, (4 mars 2010), https://www.legifrance.gouv.fr/affichTexte.do?cidTexte=JORFTEXT000021906441 2019年5月15日閲覧。 
  2. ^ Frankel, Rebecca. “The FP Top 100 Global Thinkers” (英語). Foreign Policy. 2019年5月14日閲覧。
  3. ^ Attali runs out of credit: The EBRD president was finally forced to” (英語). The Independent (1993年6月27日). 2019年5月16日閲覧。
  4. ^ Banques: le triomphe des coupables par Jacques Attali” (フランス語). Slate.fr (2009年8月3日). 2019年5月15日閲覧。
  5. ^ Memorial C”. www.etat.lu. 2019年5月16日閲覧。
  6. ^ ミシェル・フーコー「そんなものに興味はありません」『ミシェル・フーコー思考集成IX 1982-83 自己/統治性/快楽』筑摩書房、2001
  7. ^ 日本語に翻訳されたタイトルに「博愛」とあるが、博愛は、フランス語に翻訳すると「PHILANTHROPIE」(フィラントロピ)である。フランス語「FRATERNITÉS」(フラテルニテ)の日本語訳は「友愛」である。






固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジャック・アタリ」の関連用語

ジャック・アタリのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジャック・アタリのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジャック・アタリ (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS