ジブラルタル包囲戦 (1349年-1350年) ジブラルタル包囲戦 (1349年-1350年)の概要

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ジブラルタル包囲戦 (1349年-1350年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 18:33 UTC 版)

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第五次ジブラルタル包囲戦
Moorish Gibraltar

カスティーリャ王アルフォンソ11世(左)
1349年8月1350年3月
場所ジブラルタル
結果 引き分け。カスティーリャ軍の撤退。
衝突した勢力
カスティーリャ王国 グラナダ王国
マリーン朝
指揮官
アルフォンソ11世 ユースフ1世英語版
アブー・イナーン・ファーリス

この包囲戦はキリスト教国とモロッコのマリーン朝が支援していたムーア人のグラナダ王国との間で長年行われた断続的な紛争によるものである。

一連のムーア人の敗北と後退により、ジブラルタルはキリスト教国の領土にあるムーア人の飛び地として残っていた。地理的に孤立していることで、要塞の強度が補われていて、1333年以降、大幅に向上していた。

アルフォンソ11世は自らの愛人と非嫡出子とともに約2万人の軍を引き連れ、長い包囲戦のためにジブラルタル北部に侵入した。しかし、1350年の新年に、カスティーリャ軍の陣中で黒死病が発生した。アルフォンソ11世は陣地放棄を拒否したが、1350年3月27日、ペスト崩御し、この病気で崩御した唯一の君主になった。

第五次包囲戦の前触れ

アルフォンソ11世は、第三次包囲戦でムーア人に奪取されてすぐに、1333年の第四次包囲戦でジブラルタルを奪還しようとしたが、2ヶ月の包囲戦の末に撤退させられた[1]。平和は一時的に回復したが、停戦は4年後の1338年に解消された[2][3]

1339年に紛争が再開され、ムーア人は大敗を喫した。アブー・マーリク・アブドゥルワーヒド英語版率いるマリーン朝軍が1339年にキリスト教国との戦いで壊滅し[2]、グラナダのユースフ1世とマリーン朝のアブー・アルハサン・アリー率いる大軍がサラードの戦い英語版でカスティーリャとポルトガルの軍に壊滅させられた。この戦いはレコンキスタにおいて最大規模であり、双方の軍でそれぞれ15万人から20万人いたとされ、ムーア人側だけでも死者が6万人いたことが確認されている[4]。ムーア人が敗北してアンダルシアが非常に脆弱になったものの、キリスト教国は優勢の時に攻めず、結果的にムーア人に軍を再建する時間を与えたことになった。

アルヘシラスの陥落

1342年8月、アルフォンソ11世はジブラルタル湾の西側にあるアルヘシラスの要港を包囲し、カスティーリャ海軍が街から海へのアクセスを遮断した。20ヶ月の包囲戦で注目すべきところはムーア人が大砲を使ったことである。ヨーロッパで銃火器が効果的に使われた最初の戦いだった[5]。カスティーリャを撤退させたものの、アルヘシラス湾の入り口を横切ってブームを起こし、封鎖が完了するまで、どちらの陣営も優勢になれなかった。基地がすぐに切り離され、ユースフ1世は1344年3月に敗北し、アルヘシラスが降伏し、駐屯軍が平和的に撤退して、グラナダからカスティーリャに進貢を継続する代わりに15年間停戦することを申し出た。アルフォンソ11世は提案を受け入れたものの、停戦期間を10年に減らした[6]

アブー・アルハサン・アリーが息子のアブー・イナーンに敗北したことで、停戦は1348年までしか続かなかった。ユースフ1世がカスティーリャ領に急襲して敵対行為を再開したので、アルフォンソ11世は1348年12月にカスティーリャ議会でカスティーリャ領内にあるムーア人の飛び地だったジブラルタルに向かって進軍すると宣言した。ジブラルタルは簡単な目標ではなかった。街は、新たな城壁、塔、大幅に強化された要塞、ムーア城により、改めて十分に要塞化されていた。ジブラルタル南部の要塞化の不足など、1333年の包囲戦で露呈した多くの弱点が改善されていた[7]


  1. ^ Agrait 2010, p. 209.
  2. ^ a b Jackson 1986, p. 47.
  3. ^ Hills 1974, p. 66.
  4. ^ Jackson 1986, p. 49.
  5. ^ Hills 1974, p. 74.
  6. ^ Jackson 1986, p. 51.
  7. ^ a b c d e Jackson 1986, p. 52.
  8. ^ Agrait 2010, p. 210.
  9. ^ Hills 1974, p. 83.
  10. ^ Hills 1974, pp. 83–4.
  11. ^ Agrait 1998, p. 161.
  12. ^ a b Hills 1974, p. 85.


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