ジブラルタル包囲戦 (1349年-1350年) 第五次包囲戦とペスト

ジブラルタル包囲戦 (1349年-1350年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/07 18:33 UTC 版)

第五次包囲戦とペスト

アルフォンソ11世は、1333年の包囲戦で失敗した際の問題に直面しないように準備してから、1349年8月に遠征を敢行した。遠征の資金については、3つの並外れた課税や(アルフォンソ11世の戦いを十字軍として承認していた)教皇に認められた教会の収入の分与、王領の売却、そして戴冠宝器英語版を鋳潰して売却して調達した[7][8]。また、1333年よりも貴族を厳格に管理しており、多くのカスティーリャの大貴族が遠征に同行した。アルフォンソ11世は2,000人の軍とともにジブラルタルの北にあるラ・リネア・デ・ラ・コンセプションに陣を敷いた。カスティーリャ軍はジブラルタルを急襲しようとせず、腰を据えて長期的な包囲戦に臨み、ムーア人が脱出しないように地峡を横切って防御的な溝を掘った。陣地は一時的なものより街に近く、軍がバラックを建てていた。また、アルフォンソ11世は愛人のレオノール・デ・グスマンと四男一女の家族のほとんどを連れて行ったが、嫡出子のペドロセビリアに残っていた[9]。包囲戦は原始的な大砲に支えられ、これがジブラルタル要塞に対して最初に火薬兵器を使用したことになった[7]

ジブラルタルの駐屯地が降伏する気配がないまま、包囲戦は秋から冬まで長引いた。1350年の新年に、過去2年間で西ヨーロッパで猛威を振るっていた黒死病が陣中で発生した。ペストで多数のカスティーリャ兵が亡くなり始めたので、アウトブレイクでパニックが起こった。将軍、貴族、王室の女性は、アルフォンソ11世に包囲戦を止めるように懇願したが、王は拒否した。カスティーリャの年代記編者によれば、王は剣を抜き、ジブラルタルを再びキリスト教国が支配するまで離れるつもりはないと宣言したとされる[7]

Chronica de Alfonso XIでは以下のように記されている。

He replied to the Lords and Knights who so advised and counselled him, that he asked them to voice no such advice [to leave]; for he had that town and noble fortress on the point of surrendering to him, and he minded that it would soon be his; the Moors had won it and the Christians had lost it in his time, and it would be a greatly shameful thing if because of fear of death he left it as it was."[10]

この決定により、まもなく王は命を失うことになった。Chronicaには、「it was the will of God that the King fell ill and had the swellings, and he died on Good Friday, 27 March of the year of our Lord Jesus Christ 1350.」と記されている。アルフォンソ11世が崩御したことで包囲戦はすぐに中止され[7]、王は中世で唯一ペストで崩御した君主になった[11]。救援部隊を組織していたユースフ1世は、平和的にカスティーリャ軍が撤退するのを許し、ジブラルタルの防衛軍は安全な街の外壁から離れて、カスティーリャ王の葬列に別れを告げた[12]。ムーア人は命拾いしたと認識していた。アラブの歴史家Al-Khatibは後に「King Alfonso was within reach of obtaining the whole Spanish peninsula, ... yet as he besieged Gibraltar, Allah in His great wisdom favoured the Faithful in their extremity.」と記している[12]


  1. ^ Agrait 2010, p. 209.
  2. ^ a b Jackson 1986, p. 47.
  3. ^ Hills 1974, p. 66.
  4. ^ Jackson 1986, p. 49.
  5. ^ Hills 1974, p. 74.
  6. ^ Jackson 1986, p. 51.
  7. ^ a b c d e Jackson 1986, p. 52.
  8. ^ Agrait 2010, p. 210.
  9. ^ Hills 1974, p. 83.
  10. ^ Hills 1974, pp. 83–4.
  11. ^ Agrait 1998, p. 161.
  12. ^ a b Hills 1974, p. 85.


「ジブラルタル包囲戦 (1349年-1350年)」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  ジブラルタル包囲戦 (1349年-1350年)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ジブラルタル包囲戦 (1349年-1350年)」の関連用語

ジブラルタル包囲戦 (1349年-1350年)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ジブラルタル包囲戦 (1349年-1350年)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのジブラルタル包囲戦 (1349年-1350年) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS