ジェイムズ・ケアード号の航海 ジェイムズ・ケアード号の航海の概要

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ジェイムズ・ケアード号の航海

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/06/19 17:12 UTC 版)

1916年5月10日、長い航海の果てにサウスジョージア島に上陸するジェイムズ・ケアード号を描いた絵画

1915年10月にエンデュアランス号ウェッデル海の叢氷によって沈められ、シャクルトンと隊員達は不安定な浮氷の上で漂流した。この集団は1916年4月まで北向きに漂流を続けていたが、このとき宿営していた氷が割れた。彼らは救命ボートでエレファント島に渡り、そこでシャクルトンは救援を得るための最も効果的な方法が、その救命ボートの1つでサウスジョージア島まで渡ることだと判断した。

3隻あった救命ボートの中で、ジェイムズ・ケアード号が最強と考えられ、その旅に耐えられそうだと判断した。その船名はダンディジュート製造者かつ慈善事業家であり、その資金でこの遠征を可能にしていたジェイムズ・キー・ケアード卿から採られた。遠征に出る前に、船大工のハリー・マクニッシュが、南極海の荒い海にも耐えられるよう、そのボートを強化し改良していた。エレファント島を出た後は、転覆しそうになるなど多くの危険を乗り越えて、ボートは16日間の航海後にサウスジョージア島南岸にたどり着いた。シャクルトンと2人の隊員が島内陸の山岳を越えて、北岸の捕鯨基地に到着した。ここでエレファント島に残った隊員の救援隊を組織することができ、一人の生命も失うことなく救援に成功した。第一次世界大戦後、ジェイムズ・ケアード号はサウスジョージア島からイングランドに戻され、現在はシャクルトンの母校であるダリッジ・カレッジで永久展示されている。

背景

大きく傾いたエンデュアランス、氷の間に沈む直前の姿、1915年11月

1914年12月5日、シャクルトンの遠征船エンデュアランスがサウスジョージア島を発ってウェッデル海に向かった。これは帝国南極横断探検隊の第一段階だった[1]。まずウェッデル海で探検されている中では最も南の南緯77度49分にあるバシェル湾に向かい、そこで陸上部隊が上陸して南極横断探検に備えることになっていた[2]。しかしその目標地点に達する前に、船は叢氷に捉えられ、脱出の試みが長く行われたものの、1915年2月14日にしっかりと氷で周りを固められてしまった[3]。その後の8か月間、船は北向きに漂流し、10月27日に氷の圧力で潰され、最後は11月21日に沈んだ[4]

シャクルトンと27名いた隊員は浮氷の上で宿営を始めた中で、シャクルトンの考えは如何にすればその隊員をうまく救うかに変わっていた[5]。最初の計画は氷上を歩いて最も近い陸地に移動することであり、他の船が通ることがあると分かっている地点に達することだった[6]。その移動を始めたが、氷表面の性状などによって進行が妨げられた。シャクルトンは後に「柔らかく、良く割れ、開口部が浮氷をあらゆる角度に割っていく」と表現していた[7]。前進するために数日間苦闘した後で、行軍を中止した。隊は平らな浮氷の上で「忍耐のキャンプ」を構築し、さらに北に漂流して開けた海に出ていくのを待った[8]。隊員はエンデュアランスから3隻の救命ボートを持ってきており、シャクルトンはそれらに遠征の主要な出資者からスタンコーム・ウィルズダドリー・ドッカージェイムズ・ケアードと名付けていた[9]。隊は1916年4月8日まで待ち、その時点から救命ボートで氷を割って進み始めた。荒海や危険な浮氷の間を7日間、帆とオールを使った危険な航海の後で、隊は4月15日に暫定的な退避場であるエレファント島に到着した[10]

エレファント島

1916年4月、エレファント島に到着したシャクルトンの隊

サウスシェトランド諸島の東端部にあるエレファント島は、遠征隊が行こうと計画していた何処よりも遠く、また通常の船が通るルートからも遥かに離れていた。救援船が探しに来る可能性も低く、外界の機関が救援を考えるとしても無視して掛かるところだった[11]。この島は荒涼として人には厳しく、大地には植物が生えなかったが、清水があり、アザラシやペンギンが比較的多かったので、差し当たり生存するための食料や燃料は調達できた[12]。南極の冬の厳しさが急速に迫っていた。キャンプしている狭い砂利浜には既にほとんど連続した暴風や暴雪に見舞われており、その暫定キャンプのテントの1つを破壊しており、別のテントはぺしゃんこになった。それまでに隊員が経験した圧力や厳しさが、さらなる困難さを予告しており、隊員の多くは精神的にも肉体的にも疲れ切った状態にあった[13]

このような状態の中で、シャクルトンは救命ボートの1隻を使って助けを呼びに行くことにした。最も近い港は540海里 (1,000 km) 離れたフォークランド諸島スタンレーだったが、偏西風のため、近づくのが困難だった[11]。よりましな選択肢はサウスシェトランド諸島の西端部にあるデセプション島を目指すことだった。そこは無人島だが、海軍本部の記録では、難破船のための物資が蓄えられており、捕鯨業者がときたま訪れているということを示していた[14]。しかし、そこに行くためにはやや開けてはいない海だが偏西風を逆行することになり、救援の手があるのか確実性が無かった。副隊長のフランク・ワイルドおよびエンデュアランス号船長のフランク・ワースリーと検討した後、シャクルトンは北東にあるサウスジョージア島の捕鯨船基地に行くことに決めた。このことは南極海を横切って約800海里 (1,500 km) というかなり長距離を救命ボートで航行することを意味した。冬が急速に近づいていたが、追い風を受ければ実行できると思われた。シャクルトンは「海に氷がなく、ボートが荒海に耐えれば、1か月の内に航海して、救援隊と共に戻って来られる」と考えた[11]


  1. ^ Shackleton, South, p. 3.
  2. ^ Huntford, p. 367.
  3. ^ Shackleton, South, pp. 29–34.
  4. ^ Shackleton, South, p. 98.
  5. ^ Huntford, p. 460.
  6. ^ Huntford, pp. 456–457.
  7. ^ Shackleton, South, pp. 102–106.
  8. ^ Shackleton, South, pp. 107–116.
  9. ^ Huntford, p. 469.
  10. ^ Shackleton, South, pp. 120–143, Shackleton (p. 143) claimed it as the first landing ever on the island..
  11. ^ a b c Shackleton, South, pp. 156–157.
  12. ^ Huntford, p. 523.
  13. ^ Alexander, pp. 130–32.
  14. ^ Shackleton, South, p. 119.
  15. ^ Alexander, p. 132.
  16. ^ Shackleton, South, p. 149.
  17. ^ Huntford, pp. 504, 525, The boat was sharp at stern and bow, to facilitate movement in either direction.
  18. ^ a b c d e f g Shackleton, South, pp. 157–162.
  19. ^ Huntford, p. 525.
  20. ^ a b c d e Alexander, pp. 134–135.
  21. ^ Huntford, pp. 401–402.
  22. ^ Worsley, quoted in Barczewski, p. 105.
  23. ^ Alexander, p. 139.
  24. ^ Huntford, p. 527.
  25. ^ a b c d e f Huntford, pp. 548–553.
  26. ^ Shackleton, South, p. 167.
  27. ^ a b c d Barczewski, pp. 107–109.
  28. ^ Huntford, p. 555.
  29. ^ Worsley, p. 88.
  30. ^ Huntford, p. 557.
  31. ^ Huntford, p. 560.
  32. ^ a b c d e f g Shackleton, South, pp. 174–79.
  33. ^ a b c Alexander, p. 150.
  34. ^ Shackleton, South, p. 165.
  35. ^ Alexander, p. 153.
  36. ^ Shackleton, South, pp. 185–186 and p. 191.
  37. ^ http://www.sebcoulthard.com/navigational-instruments.html
  38. ^ http://www.telegraph.co.uk/news/obituaries/9288501/Tony-Mercer.html
  39. ^ Shackleton, South, p. 191.
  40. ^ Huntford, p. 571, states that Norwegian skiers had "probably" crossed at various points, but these journeys were not recorded.
  41. ^ Quoted by Huntford, p. 597.
  42. ^ Huntford, pp. 597–598.
  43. ^ Shackleton, South, p. 208.
  44. ^ Worsley, quoted in Huntford, p. 602.
  45. ^ Shackleton, South, pp. 210–222.
  46. ^ a b The James Caird Society”. James Caird Society. 2008年8月19日閲覧。
  47. ^ Huntford, pp. 689–90.
  48. ^ Eminent Old Alleynians: Sir Ernest Shackleton”. Dulwich College. 2008年8月23日閲覧。
  49. ^ The James Caird”. Dulwich College. 2008年8月19日閲覧。


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