サン・マロ襲撃 (1693年)とは? わかりやすく解説

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サン・マロ襲撃 (1693年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/01/13 10:00 UTC 版)

サン・マロ襲撃

イングランドがサン・マロに放った火船の構造。
戦争大同盟戦争
年月日1693年11月26日 - 11月29日
場所フランス王国サン・マロ
結果:イングランドによる襲撃は失敗
交戦勢力
イングランド王国 フランス王国
指導者・指揮官
ジョン・ベンボー英語版
トマス・フィリップス英語版
戦力
船30-40隻
うち火船1隻
損害
5-6

サン・マロ襲撃(サン・マロしゅうげき、フランス語: Raid sur Saint-Malo)は大同盟戦争中の1693年11月26日から11月29日にかけて、イングランド王国海軍によるフランス王国ブルターニュ地域にある港口都市サン・マロへの襲撃。数日間の砲撃の後、イングランドは後に「悪魔の機械」(machine infernale)と呼ばれ、火薬とぶどう弾の詰まった火船をサン・マロの塁壁英語版に放った。襲撃は失敗に終わり、甚大な物的被害をサン・マロに強いたものの、人的被害は皆無だった。

背景

1693年、オラニエ公イングランド王ウィリアム3世率いるアウクスブルク同盟フランス王国の間の戦争は5年目に入った。1692年春にフランス海軍がバルフルール岬とラ・オーグの海戦で敗北したが[1]、翌年のラゴスの海戦で「スミルナ船隊」(Smyrna convoy)を拿捕して雪辱を果たした。しかし、フランスはその後通商破壊の戦略に切り替わり、フランス艦隊はすぐに時代遅れと化した。

イングランドの貿易は特にサン・マロダンケルク私掠船で大きな被害を受けており、フランスはサン・マロを「私掠船都市」(la cité corsaire)と呼んだが、イングランドは「スズメバチの巣」と呼んだ。私掠船業は9世紀より続けられており、イングランド海軍本部の記録では1688年から1697年までの間、サン・マロの私掠船がイングランドとオランダの商船3,384隻と護衛船162隻を拿捕したという。

サン・マロが攻撃の標的となるのは明らかであり、フランス王ルイ14世は1689年に技術将校セバスティアン・ル・プレストル・ド・ヴォーバンに命じてサン・マロの守備を強化させた。彼はサン・マロの町と城塞の塁壁を強化して大砲を置けるようにしたほか[2]、サン・マロ沖の主要な島嶼についてもその城塞の設計を描き上げた。これらの島嶼の一部は1689年以前にすでに防御工事が施されていたが、ヴォーバンはそれを強化してイングランドとオランダの攻撃に備えた。

イングランドでは私掠船の攻撃を止めるよう、サン・マロを破壊する計画が立てられた。イングランド王ウィリアム3世の命令で秘密兵器の設計が2年間に渡ってロンドン塔内にて進められた。その成果である「悪魔の機械」(machine infernale)は火船の一種で長さは84フィート、重さは300トン、大砲23門を有しており、甲板は3つあった。できるだけ岸に近づけられるよう、喫水はわずか7フィートだった。帆は黒く、船の側面には火薬、爆弾、刻んだわら、ぶどう弾がふんだんに積まれた。中身は石造で火薬、松やに、硫黄などが積まれた樽、さらに砲弾、手りゅう弾、銃弾の入った銃、タールが塗られた布など燃えやすいものが大量に積まれた。

英蘭連合艦隊の砲撃と「悪魔の機械」の敗北

1693年11月26日、船30から30隻で構成された英蘭連合艦隊がフレエル岬英語版に現れ、ラ・ラッテ砦英語版エビアン諸島フランス語版Archipel des Ébihens)を砲撃した後、サン・マロ沖で錨を下ろした。艦隊は50から60門戦列艦10隻、フリゲート20から30隻、爆弾船としてのガリオット、シャループ(chaloupeカッターの1種)、そして「悪魔の機械」であった。艦隊の指揮官はジョン・ベンボー英語版海軍代将(旗艦は48門艦ノリッジ英語版)と技術将校のトマス・フィリップス英語版だった。

11月27日の夜明け、イングランドは未完成のラ・コンシェ砦英語版を奪取、当時工事を進めていた30から40人を捕虜にして彼らの工具が置かれた倉庫を燃やした[3]。フランス側はサン・マロ市とロワイヤル砦英語版から砲撃、艦隊が前日と同じように接近することを防いだ。ガリオット船は砲弾にあたって帆柱を折られ、別の船は砲弾で船首を破壊された[4]。イングランドは午後9時に砲撃を再開したが砲弾を22発撃っただけで止まり、翌朝5時に砲撃を再開した。これらの砲撃は効果が薄く、撃たれた50から60枚の砲弾のうちサン・マロ市に届いたのは20枚だけであり、火事にもならず家屋数軒の屋根と窓が破られただけだった[4]

28日朝、サン・マロの私掠船ル・モーペルテュイ(Le Maupertuis)はオランダ船のL'Isabelle(300トン、21門艦)を拿捕してフレエル岬から現れた。イングランド艦隊はフランスの旗である白旗を掲揚して自軍をル・モーペルテュイに乗船させようとしたが、ル・モーペルテュイの航速のほうが上だったため逃げられた[4]。同日、ブルターニュ知事の第3代シャルンヌ公爵英語版シャルル・ダルベール・ダイイ英語版アンタンダンフランス語版ルイ・ド・ベシャメル英語版が貴族数人とともにサン・マロに到着、守備を指揮した[5]。当時サン・マロ近くにいた2人海軍少将コエトロゴン侯爵英語版アンフレヴィル侯爵フランス語版は士官約20人(多くが海軍大佐)とともに戦場に向かった[5]。シャルンヌ公爵は増援として大勢の砲兵と砲兵士官を呼び寄せた。28日、イングランドはセザンブレ島英語版に上陸したが、修道院に神父1人とレコレ派英語版の修道士2人が残っているのみで、残りはサン=セルヴァン英語版に避難した[5]。その夜、シャルル・ド・サント=モールフランス語版は偵察を行い、イングランド艦隊に接近することに成功した。またイングランド船数隻がサン・マロ沖、市の周りにある岩を発見した[6]。午前6時頃に砲撃が開始されたが、効果は薄かった。

29日、イングランド艦隊はロワイヤル砦を砲撃した後、夕方に「悪魔の機械」を放ってサン・マロ市の城壁に取り付けて爆発させようとした。ウィリアム3世が選んだ標的はサン・マロの火薬庫であるビドゥアネ塔(Tour Bidouane)であった。

悪魔の機械は妨害されずに城壁から50ペースまでのところに接近したが、ロワイヤル砦からラ・レーヌ砦の間の岩列を通るとき、西向きの突風により座礁してしまった。この岩は後に「イギリス人の岩」(les roches aux Anglais)または「グロ・マロの岩」(le Rocher de Gros Malo)と呼ばれた。船体の底に穴が開いてしまったため、イングランド工兵はすぐに火をつけたが、すでに火薬の一部が湿ってしまったため効果が減ってしまい、さらに火の手が海の方向に向かったため、サン・マロ市に延焼しなかった。

やがて船は爆発して、周り約2リーグの家屋を震わせ、空が溶鉱炉のように数分間炎で満ちており、サン・マロ市には落下物が次々と落ちてきた。サン・マロの物的被害はひどく、ほとんどの家屋の窓が砕かれ、家屋300軒の屋根が壊れたが、死者は出ず、倒壊した壁もなかった。重いキャプスタンだけが広場に落ちてきて家屋1軒を壊した。フランス側の生物の被害は猫1匹と犬2匹だけであり、逆にイングランド側は死者5から6人を出した。「悪魔の機械」の操船手は逃げ遅れて死亡、また爆発により大量の水が吹き出てボートが沈没、数人が死亡した。

影響

最初の計画は失敗したが、サン・マロには大損害を与え、ベンボー率いる軍勢はラ・コンシェ砦英語版を奪取して、そこで得た大砲と捕虜をガーンジーに移した[7].ベンボーは戦役の結果に失望してヘンリー・ツアーヴィル大尉(Henry Tourville)を軍法会議にかけたが、後に臼砲が壊れていることが判明して無罪放免になった[8].

バークリー・オブ・ストラットン男爵英語版率いる英蘭連合艦隊75隻は1695年7月14日から18日にかけてサン・マロを再び砲撃した。

サン・マロでは当時の堡塁内にあったとある通りがシャ・キ・ダンス通りフランス語版(「舞う猫の通り」)に名づけられたが、サン・マロへの襲撃で火船が爆発した結果、誰も負傷せず、1匹の猫のしっぽが燃えただけに終わったことを起源としている[9]

脚注

  1. ^ バルフルール岬とラ・オーグの海戦から数週間後、英蘭連合艦隊約30隻はサン・マロに向かって偵察を行った。Lécuillier 2007
  2. ^ パリ出身の技術将校シメオン・ガランジョーフランス語版は塔の上部とカーテンウォールを改造して大砲を置けるようにした。
  3. ^ Le Moyne de La Borderie 1885, p. 71
  4. ^ a b c Le Moyne de La Borderie 1885, p. 72
  5. ^ a b c Le Moyne de La Borderie 1885, p. 73
  6. ^ Le Moyne de La Borderie 1885, p. 74
  7. ^ Stephen 1889, pp. 208–214
  8. ^ Allen 1852, pp. 76-81
  9. ^ Visite du Fort National Anciennement Fort Royal” (フランス語). 2018年1月12日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク




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