クニフラー商会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/24 06:40 UTC 版)
土佐藩との交易
1866年春にクニフラー商会が土佐藩へ銃・船舶などを納める取引で対価となる土佐藩品の樟脳の市場価格暴騰により、土佐藩の契約不履行が生じた。その際土佐藩では岩崎弥太郎が窓口となったが、この問題の決着は明治維新後までつくことがなかった[2]。司馬遼太郎は「竜馬がゆく」でこの時の土佐藩後藤象二郎とクニフラー商会(文中ではキネプル)のもめごとを取り上げている。 その後、岩崎弥太郎の三菱商会がもととなって作られた日本郵船が欧州航路ハンブルク線を開拓し、クニフラー商会およびその後のイリス商会がおこなった取引物資の運搬に貢献している。
その後
クニフラーは、日本での営業基盤確立を実現した1865年秋にデュッセルドルフに戻ったが、1866年5月クニフラーと入れ違いでドイツより着任したカール・イリスが横浜でクニフラー商会の社員となり、その後1880年にクニフラーから経営権を継承し、社名をイリス商会(伊理斯商会)と変更した。
イリス商会(現・株式会社イリス)は、クニフラー商会を起源としており、日本に現存する最古の外資系企業となっている[3]。
外部リンク
- 笠井雅直「幕末・維新期におけるクニフラー商会の貿易活動 -ドイツ・イリス商会前史- (PDF) 」『商学論集』第62巻1号、福島大学経済学会、1993年、pp.65 - 76
- 1 クニフラー商会とは
- 2 クニフラー商会の概要
- 3 土佐藩との交易
- クニフラー商会のページへのリンク