キョプリュリュ家 キョプリュリュ家の概要

キョプリュリュ家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/20 05:16 UTC 版)

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来歴

門閥としてのキョプリュリュ家は、メフメト4世の治世においてキョプリュリュ・メフメト・パシャ英語版が大宰相に就いたことに始まる。キョプリュリュ・メフメトは、アナトリアキョプリュ英語版の有力者と姻戚関係を結び、そこを基盤として中央政界の官職を歴任、家臣団を形成した。キョプリュリュ・メフメトが死ぬと、息子のキョプリュリュ・アフメト・パシャが後を継いだ(大宰相の父子世襲としては初[1])。この両者の時代に、オスマン帝国の版図は史上最大となった。

その功績によりキョプリュリュ家の世襲は続き、キョプリュリュ・メフメトの娘婿としてキョプリュリュ家に入ったカラ・ムスタファ・パシャがキョプリュリュ・アフメトの後任となったが、カラ・ムスタファは第二次ウィーン包囲で大敗、さらにその責を問われて刑死した。

カラ・ムスタファの死により、キョプリュリュ家からの大宰相は一時途絶えたが、何人かののち、キョプリュリュ・ムスタファ・パシャが再度キョプリュリュ家から登用された。後にカルロヴィッツ条約が調印されたときの大宰相もキョプリュリュ家出身のキョプリュリュ・ヒュセイン・パシャ英語版であった[1]

人物

名前 生没年 大宰相在任 皇帝
キョプリュリュ・メフメト・パシャ英語版 1586年頃–1661年[1] 1656年–1661年 メフメト4世
キョプリュリュ・アフメト・パシャ 1635年1676年[1] 1661年–1676年 メフメト4世
カラ・ムスタファ・パシャ 1634年1683年 1676年–1683年 メフメト4世
キョプリュリュ・ムスタファ・パシャ 1637年1691年[1] 1689年–1691年 スレイマン2世
アフメト2世
キョプリュリュ・ヒュセイン・パシャ英語版 1644年-1702年 1697年–1702年 ムスタファ2世
キョプリュリュ・ヌーマン・パシャ英語版 1719年 1710年–1711年[1] アフメト3世
キョプリュリュ・アブドゥッラー・パシャ英語版 1735年 1723年–1735年 アフメト3世
マフムト1世

現在

メフメト・フアト・キョプリュリュ英語版は1950年から1955年までトルコの外務大臣を務めた。

脚注



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