オーストリアによるボスニアでの戦闘 (1878年) オーストリアによるボスニアでの戦闘 (1878年)の概要

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オーストリアによるボスニアでの戦闘 (1878年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/23 01:53 UTC 版)

オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴビナ侵攻
東方問題

モスタール近郊の北部オーストリア=ハンガリー軍駐在地
1878年7月29日から10月20日
場所ボスニア・ヘルツェゴヴィナ
結果 オーストリア=ハンガリー帝国の勝利
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの占領
領土の
変化
オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴヴィナの統治
衝突した勢力
 オーストリア=ハンガリー帝国 ボスニア州英語版
オスマン帝国
指揮官
ヨシプ・フィリポビッチ英語版
ガヴリロ・ロディッチ英語版
スティエパン・ヨバノヴィッチ英語版
ムハメド・ハジヤマコビッチ英語版 
ハジ・ロハ英語版
戦力
198,930人(合計)
91,260人(平均)[1]
反乱軍79,000人
兵士13,800人[2]
被害者数
死傷1,205人
病死2,099人
負傷3,966人
行方不明177人
合計: 7,447人[3]
不明

ボスニア・ヘルツェゴヴィナオーストリア=ハンガリー帝国の支配を確立するための遠征は、1878年7月29日から10月20日まで、オスマン帝国が支援した地元のレジスタンス軍に対抗して続いた。オーストリア=ハンガリー帝国軍は、北からボスニアへ、そして南からヘルツェゴヴィナへという二つの大きな移動を伴って侵入した。8月の一連の戦闘は、市街戦の1日後の19日のサラエボ陥落で最高潮に達した。丘陵地帯では、主導者が捕らえられた後、最後の反政府勢力の拠点が崩壊するまでゲリラ運動が続いた。

背景

1904年のボスニア・ヘルツェゴビナとノヴィ・パザルの地図

1877年から1878年にかけて起こった露土戦争の後、列強によってベルリン会議が開催された。会議の結果締結されたベルリン条約(1878年7月13日)の第25条によると、ボスニア・ヘルツェゴビナはオスマン帝国の主権下に留まったが、オーストリア=ハンガリー帝国は無期限にボスニア・ヘルツェゴビナの軍事防衛と行政を引き受けることになった。また、ノヴィ・パザルサンジャクで軍事的駐屯所を無期限に占領する権利を得た。

ボスニア・ヘルツェゴビナの各州は、オーストリア=ハンガリー帝国によって占領され管理される。オーストリア=ハンガリー政府は、セルビアとモンテネグロの間を南東方向に、ミトロヴィツァの反対側に伸びるノヴィ・パザルのサンジャクの管理を引き受けることを望まず、オスマン帝国政権はそこで職務を果たし続けるだろう。それにも関わらず、新たな政治情勢の維持、ならびに通信の自由と安全の確保のために、オーストリア=ハンガリー帝国は、古代ボスニア州のこの部分全体に駐屯地を維持し、軍事および商業道路を有する権利を保有する。この目的のために、オーストリア=ハンガリー帝国とトルコの政府は詳細について理解するために自らを留保する[4]

オスマン帝国はノヴィ・パザルの占領に抗議したが、オーストリア=ハンガリー帝国の外相アンドラーシ・ジュラは、ノヴィ・パザルでの占領は「暫定的と見なされる」ことをオスマン帝国に密かに保証した。オスマン帝国を犠牲にして南方に拡大したオーストリア=ハンガリー帝国は、ロシアによるバルカン半島への影響力の拡大と、セルビアモンテネグロの連合を防ぐために図られた。

オーストリア=ハンガリー帝国は、彼らが占領を遂行する上での問題はないと予想していた。アンドラーシの言葉を借りれば、「ブラスバンドを持った散歩」(Spaziergang mit einer Blasmusikkapelle) となる。この意見は、セルビア人セルビア・オスマン戦争英語版でオスマン帝国からの独立のために戦ったばかりであり、その間ヘルツェゴビナが反乱を起こしたということを考慮していなかった。オーストリア=ハンガリー帝国の乗っ取りに対する抵抗は、主に正教会のセルビア人(人口の43%)とボスニアのイスラム教徒(人口の39%)によって起こっており、カトリッククロアチア人(人口の18%)による抵抗はほとんど無かった。新しいキリスト教政府の下で、イスラム教徒は最大の勢力ではなくなった。抵抗者は、オーストリア=ハンガリー政府によって「文明化されていない」および「危険である」として特徴付けられた[5]

軍隊

サヴァ川を渡る歩兵連隊第17号(1905年 カール・ピピッチ作)

オーストリア=ハンガリー帝国軍はボスニア・ヘルツェゴビナへの攻撃に備えるための大規模な動員活動に従事し[6]、1878年6月末までに、ダルマチア王国の後方部隊だけでなく、VI、VII、XX、XVⅢの歩兵師団で82,113名の軍隊、13,313頭の馬、112門の大砲を指揮した[7]。主な指揮官はヨシップ・フィリポビッチだった。前方XVIII歩兵師団はスティエパン・ヨバノビッチの指揮下にあり、ダルマチアの後部陸軍司令官はガヴリロ・ロディッチの指揮下にあった[8]。ボスニア・ヘルツェゴビナの占領は1878年7月29日に始まり、10月20日に終わった[9]

当時のボスニア・ヘルツェゴビナのオスマン帝国軍は、77門の大砲を備えた約40,000名の軍隊で構成されており、地元の民兵と合わせて約93,000名の兵士がいた[10]。オーストリア=ハンガリー帝国は、占領によってボスニアのイスラム教徒が宗教に基づく特権的地位を失うことになると気づき、イスラム教徒からの激しい抵抗を予想していた[11]


  1. ^ Der ganze äußere Umkreis Sarajevos war stark besetzt. Aber auch im Inneren der Stadt gestatteten die engen Gassen mit ihren vielen Häusergruppen und einzelnen in den Erdgeschossen leicht zu verrammelnden Gebäuden, deren kleine Fenster der Stockwerke und zahlreiche Dachlücken die Abgabe des Feuers nach verschiedenen Richtungen zuließen, die nachhaltigste Verteidigung. Von der Umfassung der Stadt vertrieben, warfen sich die Insurgenten meist in die nächsten Häuser, verbarrikadierten alle Eingänge und unterhielten ein vernichtendes Feuer gegen die nachstürmende Infanterie.[17]
  2. ^ Es entspann sich einer der denkbar gräßlichsten Kämpfe. Aus jedem Hause, aus jedem Fenster, aus jeder Tür spalte wurden die Truppen beschossen; ja selbst Weiber beteiligten sich daran. Das fast ganz am westlichen Stadteingange gelegene Militärspital, voll von kranken und verwundeten Insurgenten. . .[12]
  1. ^ Micheal Clodfelter, "Warfare and Armed Conflicts: A Statistical Encyclopedia", p.196
  2. ^ Plaschka 2000, p. 99–100.
  3. ^ Micheal Clodfelter, "Warfare and Armed Conflicts: A Statistical Encyclopedia", p. 196
  4. ^ Modern History Sourcebook: The Treaty of Berlin, 1878—Excerpts on the Balkans hosted by Fordham University
  5. ^ a b c d Gabriel 2011.
  6. ^ Oršolić 2000, pp. 289–291.
  7. ^ Oršolić 2000, p. 299.
  8. ^ Oršolić 2000, p. 294.
  9. ^ Oršolić 2000, p. 304.
  10. ^ Oršolić 2000, p. 301.
  11. ^ Zovko 2007, p. 13.
  12. ^ a b c Plaschka 2000, p. 45.
  13. ^ a b c d e Lackey 1995, pp. 78–79.
  14. ^ a b Zeinar 2006, pp. 402–03.
  15. ^ a b Klaic 1885, pp. 454–55.
  16. ^ a b Rothenburg 1976, p. 101-02.
  17. ^ Plaschka 2000, p. 44.
  18. ^ Plaschka 2000, p. 97.
  19. ^ Matsch 1982, p. 213.
  20. ^ Plaschka 2000, p. 99–100.
  21. ^ Calic 2010, p. 46.
  22. ^ Plaschka 2000, p. 102.
  23. ^ Popelka 1988, p. 52.
  24. ^ Rauchensteiner & Litscher 2000, p. 59.


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