アン・ブーリン 生涯

アン・ブーリン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/08 03:26 UTC 版)

生涯

生い立ち

アンの曾祖父ジェフリーはノーフォークの農家出身で、絹織物工見習いとして上京した後、財産を成してロンドン市長にまで上り詰めた。その息子ウィリアムはリチャード3世よりサーの称号を授かった[2]

ブーリン家は次々と伯爵家と縁組したり娘を国王に差し出すことで、爵位や領地を増やしていった。トマスにはアイルランド有数の名家オーモンド伯爵の相続権(共同相続権という歴史家と、わずかながらという歴史家がある[要出典])があった。トマスはサリー伯爵(ノーフォーク公の相続人が名乗るタイトル)トマス・ハワードの娘エリザベス(ヘンリー8世の元愛人だったという説がある)と結婚し、1男2女が生まれた。その一人がアンであった。

つまりブーリン家は、わずか4代前まで平民(地方農民)の家系であった。そのため研究家の一部はブーリン家の家系図において、意図的にジェフリーの出身地を記載しようとしない例もある[3]

王妃の侍女から国王の愛人へ

国王との出会い(19世紀画)

アンは幼少期にメヘレンマルグリット・ドートリッシュの私設学校で教育を受けた後、フランス宮廷に戻った。1526年頃に帰国し、ヘンリー8世の最初の王妃キャサリン・オブ・アラゴンの侍女となった。オーモンド伯爵の相続争いを収めるため、もう一人の相続人ピアス・バトラーとの結婚の話もあったが、立ち消えになった。他に詩人のサー・トマス・ワイアットや後のノーサンバランド伯ヘンリー(ハル)・パーシー英語版とのロマンスもあったといわれるが、ジョアンナ・デニー(Joanna Denny)のようにロマンスはいずれも根拠がないとする歴史家もいる。同時代のフランス側の一次史料によれば、アンは魅力に乏しい女性であり、国王のお気に入りという以外にこれといった特徴がなかったと記録されている(In the early 1530s, the Venetian ambassador Savorgnano wrote)。

やがてアンは、ヘンリー8世の愛人になるよう求められた。

ヘンリー8世とキャサリンとの間には王女メアリー(後のメアリー1世)しか子がなく(早世した男子がいたともされる)、ヘンリー8世は男子の王位継承者を切望していたものの、当初はアンを愛人にする程度で満足するはずだった。

しかし、アンから強硬に王妃の座を要求され、さもなければ肉体関係は拒否すると宣言されたため、ローマ教皇クレメンス7世にキャサリンとの「離婚許可」を求めることになった[注 2]

国王の離婚問題

王妃の座を追われるキャサリンと、公衆の面前で愛をささやく国王とアン・ブーリン(19世紀画)

カトリック教会は離婚を認めないが、離婚ではなく「結婚そのものが無効であった」(婚姻の無効)という認可を与えることで事実上の離婚を可能にする方法があった(実際に中世の王族や貴族は、教皇の認可を得てこの方法を利用している)。

ヘンリー8世とキャサリンの場合、キャサリンが元々ヘンリーの兄アーサーの妻だったことが結婚無効の理由になりえたが、教皇ユリウス2世から教会法規によって特免を得ていたため、合法的な結婚と見なされていた。また、キャサリンの甥に当たる神聖ローマ皇帝カール5世スペイン王カルロス1世)も国際関係を考慮して反対しており、教皇庁は許可を出すことが難しかった。キャサリンは国民の人気が高かったために、国内からも反対の声が大きかった。

ヘンリー8世はこれに激怒して、教皇庁との断絶を決意した。こうしてイングランド国教会の原型が成立することになった。国王至上法によって、イングランド国内において国王こそ宗教的にも政治的にも最高指導者であることを宣言し、ヘンリーは1533年5月にアンを正式な王妃に迎えた。

これに反対したトマス・モア処刑された。また、修道院解散によってカトリックの修道院の多くが解散させられ、反対した多くの修道士が処刑された。

約1000日の王妃として

1533年5月23日、キャサリン王妃との結婚の無効の宣言がなされた。6月1日、聖霊降臨祭の日に戴冠式が行われ、アンが正式な王妃と宣言される。

1533年9月、アンはヘンリー8世の第2王女となるエリザベスを出産した。王子誕生を望んでいたヘンリー8世は王女誕生に落胆したが、エリザベスには王位継承権が与えられた。アンは、王女の身分を剥奪され庶子に落とされたメアリーに対し、エリザベスの侍女となることを強要した。アンはまた贅沢を好み、宮殿の改装や家具・衣装・宝石などに浪費した。一方、ヘンリー8世はアンの侍女の一人ジェーン・シーモアへと心移りし、次第にアンへの愛情は薄れていった。

1536年1月、前王妃キャサリンが幽閉先のキムボルトン城で亡くなった知らせを聞くと、アンとヘンリー8世は黄色の衣装を着て祝宴を開き、ダンスを楽しんだ(黄色はイギリスでは喜びと祝いの意味を持つ)と神聖ローマ帝国及びスペインの駐英大使だったウスタシュ・シャピュイ英語版は本国に報告している。この行動を見た人々は不快に思い、2人がキャサリンを毒殺したと噂し合った。一方で黄色はスペインを表す色であり、2人は個人としてはキャサリンの訃報を悲しんでいたという記述も当時の文献にある。その後、アンは男児を流産した。奇しくもキャサリンの葬儀の日だった。男子を産まず、流産を繰り返すアンから王の寵愛が離れたことを見てとり、アンの敵たちは力を増した。

処刑

ロンドン塔のアン(19世紀画)

1536年5月1日、アンは結婚から2年後、国王暗殺の容疑、および不義密通を行ったとして、反逆罪に問われた。5人の男と姦通したとされたが、うち1人は実の兄弟ジョージ・ブーリンだったとされる。

同年5月19日、反逆、姦通近親相姦及び魔術という罪で死刑判決を受け、ロンドン塔にて斬首刑に処せられた。この時、ヘンリー8世はイングランドの死刑執行人に処刑させず、フランスのリールからジャン・ロムバウドという死刑執行人を呼び寄せて執行させたと伝えられている。また、アンが断首され首だけになった後、明らかに何かを話そうとしていたという逸話がある[4][出典無効]

当時のイングランドは斧を使って斬首していたのだが、剣での斬首を懇願するほど、アンは斧での執行を嫌がったという。


注釈

  1. ^ アン・ブーリン、キャサリン・ハワードの祖母エリザベス・ティルニーとジェーン・シーモアの祖母アン・セイは異父姉妹であり、その母エリザベス・チェイニーを共通の曽祖母とする。
  2. ^ 映画『ブーリン家の姉妹』では「王妃の座を要求したのは親族であってアンの意志ではない」といった筋立てであったが、歴史的証拠はない。

出典

  1. ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説『アン・ブーリン』 - コトバンク
  2. ^ クリストファー・ヒバート『女王エリザベス(上)』P6
  3. ^ R・マイルズ『我が名はエリザベス』(近代文芸社)
  4. ^ 切断された首はどれくらいの間意識を保てるのか?”. 2019年4月28日閲覧。
  5. ^ 日本語訳あり(上下、みすず書房)
  6. ^ 「メアリーの母エリザベス・ハワードもヘンリーの愛人だったと言われていた。エリザベスの父、サリー伯爵トマス・ハワードはヘンリーとキャサリンの結婚に反対した貴族の筆頭だった」『薔薇の王冠』石井美樹子 P386
  7. ^ Bell, Doyne C. Notices of the Historic Persons Buried in the Chapel of St. Peter ad Vincula in the Tower of London (1877) p.26






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