アルフレッド・ブライアン (ソングライター) アルフレッド・ブライアン (ソングライター)の概要

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アルフレッド・ブライアン (ソングライター)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/12 06:09 UTC 版)

Come Josephine in My Flying Machine」(1910年)の楽譜表紙
私は息子を兵士に育てなかった」(1915年)の楽譜表紙

生い立ち

ブライアンは、カナダオンタリオ州ブラントフォードに生まれ、育ち、1886年にオンタリオ州ロンドンに移り住んだ。その後、アメリカ合衆国イリノイ州シカゴに移って、新聞記者になったが、1905年ころまでにはニューヨークソングライターになっていた[1]

ソングライターとしての活躍

最初にヒット作となったのは、ブライアンが作詞し、フレッド・フィッシャー英語版が作曲した「Come Josephine in My Flying Machine」(1910年)であった。同じくフィッシャー作曲の「Peg O' My Heart」(1913年)もヒット作となり、数多くの歌手や楽団に取り上げられ、最近でも新たに録音されている[2]

第一次世界大戦が始まり、米国の世論が参戦の可否をめぐって割れていた1915年に、ブライアンは明確に反戦のメッセージが込められた「I Didn't Raise My Boy to Be a Soldier」(「私は我が子を兵士にするため育てたわけではない」の意)を、アル・ピアンタドーシ(Al Piantadosi)の作曲で発表し、ヒットさせた。しかし、既に戦争に入っていたイギリスフランスでは、この曲は販売禁止となった[1]

その後、ブライアンは、1920年代にはブロードウェイのレビューなどに曲を提供し、さらに1930年代から1940年代にかけてはハリウッドで映画用の楽曲を作った[1]

ブライアンは、1958年ニュージャージー州グラッドストーン(Gladstone)で死去した[1]

ブライアンがヒットさせた曲

外部リンク


  1. ^ a b c d King, Betty Nygaard. “Bryan, Alfred”. The Canadian Encyclopedia. 2012年2月11日閲覧。
  2. ^ 2011年には、ドロップキック・マーフィーズが、ブルース・スプリングスティーンをゲストに迎えて、アルバム『Going Out In Style』にこの曲を収録している。Bruce Springsteen Guests on Dropkick Murphys Album”. Gibson (2011年1月24日). 2012年2月11日閲覧。


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