アルタシャト 歴史

アルタシャト

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 08:46 UTC 版)

歴史

古代

アルタクサタを建設したアルタクシアス1世

紀元前176年、アルメニア王国アルタクシアス1世(アルサケス1世)がアルタクサタ(アルタハタ)を建設した。今日のホル・ヴィラップ修道院英語版の近くであり[3]、アルタクサタは歴史的なアララト地方の中のVostan Hayots郡に含まれている。古代にはこの地点でアフリアン川英語版アラス川に合流していた。5世紀の歴史家であるMovses Khorenatsi英語版は、アルタクサタの建設について「アルタクシアス1世はアラス川とアフリアン川が合流する地点まで旅し、丘に登った。彼はその地を新都市の場所として選び、新都市には自身の名を授けた」と書いている[4]

アルタクサタの名称はイラン語群に由来し、「アシャ・ワヒシュタの喜び」を意味するとされることもある[2][3]。古代ギリシャの歴史家であるプルタルコスストラボンは、アルタクシアス1世はカルタゴ人のハンニバル将軍の助言に基づいてこの地を選んだというが、現代の歴史学者によればこの説を実証する直接的な証拠は存在しない[5][6]

アルタクサタの近くにあるホル・ヴィラップ修道院

アルタクシアス1世は要塞も建設し、さらに堀などを含む砦も築いた。この要塞は後にホル・ヴィラップと呼ばれるようになり、4世紀初頭にアルメニア王ティリダテス3世英語版によって啓蒙者グレゴリオス英語版が投獄された地として注目を集めている[7]。アルタクサタは念入りに計画されたヘレニズム都市であり、政治的・宗教的にアルメニア王国の中心都市となった[6]。アルタクシアス1世はこの地で統治機構や徴税制度を確立し、領土を拡大させた[6]。アルタクサタは黒海沿岸の港湾、インド、中央アジア、中国などを結ぶ交易路沿いにあった[8]。アルメニアの商業の中心地として繁栄し、ローマ人はアルタクサタを「アルメニアのカルタゴ」と呼んだ[8]。アルタクサタの宮廷には劇場があり[8]、アルタクサタはアルメニアで初めて演劇が行われた場所である。紀元前53年、アルメニア王アルタウァスデス2世(在位紀元前55年-紀元前34年)はパルティア王オロデス2世を招き、アルタクサタの円形劇場エウリピデスの「バッコスの信女」を上演させた[9]

アルタシャトにあるティグラネス2世の石像

ティグラネス2世(治世紀元前95年-紀元前55年)は南と西の多くの領域を征服し、アルメニア王国の版図は最終的に地中海にまで達した。広大な帝国の管理体制を強化するために、ティグラネス2世はティグラノセルタを建設してアルタクサタから首都を移した[10]。アルメニアは紀元前69年にローマのルキウス・リキニウス・ルクッルス将軍による侵攻を受け、新首都ティグラノセルタ近郊で起こったティグラノセルタの戦いの結果として首都が略奪された。ティグラネス2世の追撃によってローマ軍は北東に移動し、紀元前68年にはアルタクサタの戦いが起こったが、紀元前66年にはアルタクサタの和約が結ばれた[10]。この和約でローマは、ペルシアのアルサケス朝パルティアに対する緩衝地帯とするためにアルメニアを友好国とみなし、ティグランが「王の中の王」という称号を保持することを認めた[10]。紀元前60年にはアルタクサタがアルメニア王国の首都として修復されたが、紀元120年にはヴァガルシャパトに首都が移された。

301年にはティリダテス3世英語版キリスト教をアルメニア王国の国教とした。この地域は363年にサーサーン朝ペルシアの支配下に入り、387年にローマ帝国テオドシウス1世とサーサーン朝のシャープール1世によってアルメニアが分割された際にも、ドヴィン英語版などと同様にサーサーン朝の支配下に入っている[11]

438年にヤズデギルド2世がサーサーン朝の王に即位すると、ヤズデギルド2世は非ペルシア系の住民にもゾロアスター教を強要し、アルメニア人はこれに抵抗した[12]。447年にはアルメニアのナラハル(貴族)と聖職者がアルタクサタに集結してアルタクサタ教会会議を開き、サーサーン朝への忠誠とアルメニア教会への忠誠を述べる声明をヤズデギルド2世に送った[13]。451年にはサーサーン朝との間でアヴァライルの戦い英語版が起こり、この戦いの犠牲者はアルメニア教会の殉教者とされた[14]。アルメニア軍は全滅したが、新たなペルシア王はアルメニアに対してより寛大な政策をとるようになり[14]、信仰の自由などが認められた[15]

サーサーン朝の支配下でドヴィンとアルタクサタは国際的な交易中心地となり、562年の和平協定に基づいてアルタシャトには税関が設置されている[16]。インドからは香辛料やハーブなどが持ち込まれ、サーサーン朝アルメニアからは皮革製品や染料などが送り出された[16]。サーサーン朝アルメニアに入ってきた交易品は、アルタクサタやニシビス英語版を経由してビザンツ領アルメニアにも運ばれた[17]

近現代

2015年に完成したSurp Hovhannes教会

古代都市アルタクサタの正確な位置は1920年代に特定された。上Ghamarlu村、下Ghamarlu村、Narvezlu村の3つの村を合併させた都市コミュニティとして、1945年にはソビエト連邦政府によってアルタシャトが設立された[3]。今日の街から8km北西に位置する古代都市アルタクサタが名称の由来である。ソ連時代には食品加工や建材製造などの分野で、徐々に産業中心地として成長した。1970年代初頭にアルタクサタの考古学的発掘調査が始まった。

1820年代のロシア・ペルシャ戦争後、ガージャール朝ペルシアのホイ英語版サルマス英語版から多くの住民がアルメニアに移住している。今日のアルタシャトの住民の大半はアルメニア民族であり、彼らはアルメニア教会に通っている。アルタシャトはアララティアン教皇教区英語版に属しており、Navasard Kchoyan大司教がいる首座はエレバンにある。2015年5月31日には新たなSurp Hovhannes教会が捧げられた。アルメニア民族以外には、アッシリア人の小規模なコミュニティがある。

1995年にアルメニア共和国が制定した領土の管理に関する新法で、アルタシャトは新たに設立されたアララト地方の主都となった。


  1. ^ Ararat
  2. ^ a b Hewsen, Robert H. Artaxata. Iranica. Accessed February 25, 2008.
  3. ^ a b c (アルメニア語) Tiratsyan, Gevorg. «Արտաշատ» [Artashat]. Armenian Soviet Encyclopedia. Yerevan: Armenian Academy of Sciences, 1976, vol. 2, pp. 135-136.
  4. ^ (アルメニア語) Movses Khorenatsi. Հայոց Պատմություն, Ե Դար. Gagik Sargsyan (ed.) Yerevan: Hayastan Publishing, 1997, 2.49, p. 164. ISBN 5-540-01192-9.
  5. ^ Bournoutian, George A. (2006). A Concise History of the Armenian People: From Ancient Times to the Present. Costa Mesa, CA: Mazda, p. 29. ISBN 1-56859-141-1.
  6. ^ a b c ブルヌティアン 2016, p. 60.
  7. ^ Garsoïan, Nina. "The Emergence of Armenia" in The Armenian People from Ancient to Modern Times, Volume I, The Dynastic Periods: From Antiquity to the Fourteenth Century, ed. Richard G. Hovannisian. New York: St. Martin's Press, 1997, p. 49. ISBN 0-312-10169-4.
  8. ^ a b c 中島 & バグダサリヤン 2009, p. 34.
  9. ^ Ermeni
  10. ^ a b c ブルヌティアン 2016, p. 66.
  11. ^ ブルヌティアン 2016, p. 91.
  12. ^ ブルヌティアン 2016, p. 100.
  13. ^ ブルヌティアン 2016, p. 101.
  14. ^ a b ブルヌティアン 2016, p. 102.
  15. ^ 中島 & バグダサリヤン 2009, p. 43.
  16. ^ a b 中島 & バグダサリヤン 2009, p. 44.
  17. ^ ブルヌティアン 2016, p. 106.
  18. ^ Armenian Federation of Athletics
  19. ^ Artashat urban community





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