アイルランド内戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/04 00:15 UTC 版)
内戦の経過
ダブリンの市街戦
1922年4月、ロリー・オコナー率いる反条約派がダブリンのフォー・コーツを占領し、ダブリン市内の緊張が高まった。
条約反対派は、イギリス軍との戦端を再び開けばアイルランドの民族主義者たちが一つになれると予想していた。しかし自由国の建国を決断し、困難な状況下でアイルランドの自治を進めていこうと試みていた条約賛成派の指導者たちにとって、彼らの行動は反乱に他ならなかった。マイケル・コリンズはフォー・コーツを占拠するグループに対し、その場を立ち去るように説得したが、オコナーらはこれを拒否、コリンズはフォー・コーツの砲撃を決断した。この決定の影には、イギリスによるアイルランド再占領の可能性を恐れていたコリンズの思惑があったとされる。フォー・コーツを巡る争いは、イギリス軍の撤退に伴い国中で発生していた騒乱の一つにすぎなかったが、結果的に内戦の開幕を告げる転換点となった。
イギリス軍から提供された火砲を用いて自由国軍の砲撃が開始されると、小火器しか持たない反条約派は数日間の抵抗の末に降伏した。この事件による混乱を突いて、アイルランド公文書館が爆破され、1000年もの歴史をもつアイルランド関連文書や宗教文書が灰となった。数名の反条約派指導者たち、アーニー・オマリーはかろうじて包囲を突破し、闘争を継続した。争いは激しさを増し、7月5日には反条約派のIRAがダブリンのオコンネル通りを占領し、その後1週間にわたり通りを巡って争いが継続した。この期間における犠牲者には、共和国派の指導者カハル・ブルハが含まれている。
ダブリンを巡る戦いが収束すると、自由国政府は首都の支配権を掌握し、反条約派はダブリンを離れ、アイルランド中に広がっていった。
内戦が開始されると、IRAは二派に分裂した。反条約派はIRAからより大きな支援を得たが、IRAには指揮系統、戦略、そして武器が欠けていた。彼らは防御的なスタンスをとらざるをえなかった。イギリス軍から火砲、飛行機、装甲車、機関銃、小火器、弾薬などを提供されていた自由国政府軍は、非正規軍に対し圧倒的な優位にあった。内戦が終結する頃には兵士数は5万5千人を数えていた。コリンズ配下の指揮官は、ダブリンにおけるIRA支部の条約賛成派から選抜されており、The Squad(もしくは「十二使徒」)と呼ばれた暗殺専門の組織さえ存在した。内戦中に行われた残酷な行為の一部は、このグループによるものであった。自由国軍将校の多くはIRAの出身であったが、末端の兵士は第一次世界大戦をイギリス軍兵士として戦った帰還兵たちであった。
自由国軍による主要都市占領
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ダブリンが自由国軍の手に落ちると、戦闘はアイルランド中に拡大し、コーク、リムリック、ウォーターフォードなどの都市が反条約派により占領され、「マンスター共和国」の建国が宣言された。しかし反条約派は正規戦を戦える装備を有しておらず、イギリス軍からの装備の提供を受けていた自由国軍は、それらの都市を簡単に奪取した。8月10日、マンスター共和国の最後の砦であったコークは自由国軍により占領され、反乱側の指導者たちは独立戦争時の戦友により処刑された。自由国軍により主要都市が掌握されると、内戦は暗殺を中心にしたゲリラ戦へと変貌していった。同年8月には国防相を務めていたマイケル・コリンズが反条約派によって自宅付近で殺害された[1]。ドイル・エアラン議長を務めていたアーサー・グリフィスも心臓発作により急死し、自由国政府はW・T・コスグレイヴと自由国軍の指揮官リチャード・マルケイらにより指導されることになった。
虐殺と戦争終結
内戦の後半は、都市におけるテロと郊外でのゲリラ戦が中心となった。反条約派はショーン・ヘイルズなどの対立するドイル議員を暗殺した。その返答として政府は、これ以上の不法行為が続けば獄中のIRAメンバーを射殺すると発表した。結果として4人の重要人物、ローリー・オコナー、リーアム・メローズと他2名がアイルランドの4地域の代表として殺害された。戦後になって、この内戦中に政府は77名の逮捕者を不法に殺害したことが明らかとなっている。それに加え、自由国軍は激戦が続いたケリー県を中心に捕虜の処刑を行っていた。最も陰惨な例では、Ballyseedyにおいて9人の捕虜が地雷に固定され、爆死しなかった者に機関銃を浴びせたとされている。
反条約派は民衆の支援を得られず、ゲリラ戦を散発的に行うことしかできなかった。内戦直後に行われた1923年総選挙でも、反条約派にはわずかな支持しか集まっていない。アイルランド社会に大きな影響力を持つカトリック教会も自由国政府を支持し、反条約派に属する兵士に対する秘跡の授与を拒否している。反条約派の敗戦が確実になると、デ・ヴァレラは休戦を求め、1923年5月にゲリラに対して武器を捨てるように呼びかけた。反条約派の強硬派であったリーアム・リンチがウォーターフォード県ノックミールダウンでの戦闘で死亡し、より現実主義的なフランク・エイケンの影響力が強まったことも、戦闘の中止を促進した。その後数週間でデ・ヴァレラを含む数千人の反条約派メンバーが逮捕され、内戦は一応の終結を見た。
ロイヤリストへの攻撃
内戦の原因は英愛条約にあったものの、戦闘の大義を欲していた反条約派は、古くからの伝統的共和主義者の訴え“貧しい民衆たち”を指向するようになった。地主の大部分を占める王党派(ロイヤリスト)への攻撃が行われ、彼らの土地の多くは貧しい小作農により占拠された。攻撃は地主に対してだけでなく、貧しい植民者にも向かった。多くのロイヤリストが自由国政府軍を支持し、アイルランドでの影響力を保持しようと活動するイギリス軍の支援を行う者さえ存在した。このような行動により戦後、ロイヤリストの立場は悪化することになる。
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