ごかやま【五箇山】
五箇山
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/05/10 17:43 UTC 版)
五箇山(ごかやま)は、富山県の南西端にある南砺市の旧平村、旧上平村、旧利賀村を合わせた地域を指す。地域内の「越中五箇山相倉集落」と「越中五箇山菅沼集落」は重要伝統的建造物群保存地区であり、世界遺産「白川郷・五箇山の合掌造り集落」を構成している。
地名の由来
「五箇山」の地名の由来について、五箇山出身の郷土史家である高桑敬親は、「赤尾谷・上梨谷・下梨谷・小谷・利賀谷の5つの谷からなるので『五箇谷間(やま)』となり、これが転じて「五箇山」の地名となった」とする説を提唱している[1]。
一方、「五箇」を含む地名は全国に複数存在するが、柳田國男ら民俗学者は「五箇」地名が必ずしも数字の「五」に由来するわけではなく、むしろ未開地を指す「空閑(こが)」「後閑(ごか)」に由来するという説を提唱していた[2]。同じく五箇山出身の米澤康は柳田國男の「五箇」地名についての議論も踏まえ、「五つの谷」が「五箇山」の由来であるとする高桑説を批判した[3]。
近年では、浦辻一成が「赤尾・上梨・下梨・小谷・利賀」の地名が「五箇山」とほぼ同時期に登場していることに注目し、「空閑/後閑」を語源とするよりは、やはり「五つの地域」で構成されることが「五箇山」の由来とする方が自然である、と論じている[4]。なお、「五箇山」の名称が、文献に出てくるのは約500年前、本願寺住職第9世光兼実如上人の文書が最初である。奥田直文は「五箇山」という名称が一向一揆による支配の確立と同時に現れることに注目し、「それ以前の旧荘園に規定された地域単位とは別の原理で成り立つ、新しい地域結集単位」であったことを指摘している[5]。
歴史
五箇山には、縄文時代の埋蔵文化遺跡が約50箇所ある。約4500年前(縄文中期前葉)の土器が出土している。他の年代も含めての出土品は、磨製石斧・石皿・石鏃・石棒・石刀・土偶・耳飾り・ヒスイ大珠・御物石器などである。ヒスイの大珠がコモムラ遺跡(旧平村下梨)東中遺跡(旧平村)から3個出土している。縄文時代のヒスイは全て新潟県糸魚川市の明星山から姫川(支流小滝川)と青海川に流出したもので、日本海側との交流があったことを示している。また、御物石器は祭祀具と推測されており、岐阜・富山・石川で多く出土していることから、中部圏との交流も盛んだったようである。
その後、奈良・平安時代の律令制定のころになると、この辺境の地にも中央政権の支配が及び、次第に道路が開発されていった。当時の五箇山は、砺波平野よりもむしろ、飛騨地方との交通や交易が早くから開けていたと考えられている。さらに、8世紀から11世紀にかけては、修験道の行者(山伏)たちが五箇山に入り込み、人形山や金剛堂山が開山され、山岳仏教が栄えた。この山岳仏教の伝播に伴って交通路がさらに開拓されたことは、五箇山中の開化を促す上で大きな文化史的意義を持っていた[6]。こうした古くからの飛騨との交流や往来を背景として、平家の落人伝説で有名であるが、物的証拠はない。しかし、旧平村の村名は「平家の子孫が住みついたので付けられた」とされるなど、さまざまな伝承がある[7]。実は平安時代末期、五箇山と交流のあった飛騨国には平景家ら平家一族が飛騨守として赴任しており、越中にも平盛俊や平経盛といった平家の一族郎党が国司などとして名を連ねていた。こうした往時の因縁を頼って、平氏滅亡後に飛騨や越中にいた平家一族の一部が、世をはばかって険しい五箇山の山中へ隠遁し、土着したのではないかと考えられている[8]。一方で「五箇山の文化は吉野朝武士の入籠によって開拓され、五箇山の有史は吉野朝からである。養蚕・和紙製紙は吉野朝遺臣によって始められ、五箇山へ仏教が入って来たのは後醍醐天皇第八皇子、天台座主宗良親王によってである」という説もある[9]。宗良親王は1342年に越中に上陸し、南朝の旧臣たちは再興運動を企てていた[10]。五箇山には新田義貞の家臣や楠木正季の末孫など、南朝遺臣にゆかりのある姓氏が多く残るとされ、下梨や赤尾などの古城跡は南朝方の抵抗拠点だったとも言われている[8]。さらに、新田義貞の討死後、一族郎党が五箇山に逃れて再興を図った際、同道した刀鍛冶が武器を製作し、その火種が建武の昔から「不滅の火」として守り継がれているという伝承もある。旧平村上梨地区にある白山宮では主祭神である菊理媛命に加え、宗良親王、新田一族の霊を合祀する[11]。また同下梨地区には南朝第3代長慶天皇の御陵とされるものも現存しており[注釈 1]、この地が南朝ゆかりの地であることを物語っている。
永らく白山信仰による天台宗系密教の地域であったが、1471年(文明3年)、浄土真宗本願寺派第8世宗主・蓮如が越前国吉崎(現在の福井県あわら市吉崎)に下向し、北陸一帯が一向宗の勢力となり、この地域も浄土真宗に改宗したようである[12][注釈 2]。北陸一帯の地名には「経塚」なる地名が残っているが、この地域にも天台宗系のお経を埋めた地を、こう呼んでいる。とくに、蓮如の教化を直接受けた「赤尾の道宗」が、五箇山全域の真宗門徒化に大きく貢献した[10]。浄土真宗の教えが定着すると、農民たちを中心とした「十日講」と呼ばれる強固な惣組織(信仰集団)が結成された。五箇山は本願寺と直結し、特産品であった糸や真綿を「報恩講志」として毎年上納するようになった[14]。
戦国時代に入ると、五箇山の門徒たちは一向一揆の一翼を担う存在となった。天正年間の「石山合戦」において本願寺が織田信長に攻められた際、五箇山で作られた塩硝(火薬の原料)を残らず大坂へ納めたという伝承が残っている[15]。善徳寺空勝から織田信長の攻撃の連絡を受けた滑川養照寺祐玄は、五箇山西勝寺などと示し合わせて鉄砲6挺を用意し、さらに五箇山で塩硝を買い集めて伏木から船で大坂へ上った。すぐに本願寺御堂へ行き鉄砲と塩硝を差し出すと、顕如・教如両上人はいたく満足されたという。このように本願寺の軍事面においても五箇山は重要な役割を果たした。
天正13年(1585年)、前田氏が越中を領有し、五箇山も加賀藩の支配下に入った。藩は、かつて本願寺の戦いを支えた一向一揆の強い結束力と、火薬(塩硝)の製造能力を警戒し、この地を厳重な管理下に置いた。外界から隔絶された険しい地形は、藩の軍事機密である塩硝を極秘裏に製造させるのに好都合であったと同時に、体制を脅かす者を隔離するのにも最適な環境であった。
江戸時代の1690年(元禄3年)、五代藩主の綱紀は、領内で「遠流(おんる:故郷から遠く離れた辺境の地への追放)」の適地を探させた。家老の密かな打診に対し、地元の村役人(十村)が「田向村や祖山村は籠渡ししか道がなく脱走できない」と進言したことで、庄川右岸の七か村が正式な配所に定められたのである。祖山(近代に大規模なダムが建設された、特に険しい庄川沿いの村)以南の右岸に配所が集中したのは、激流の庄川を逃亡を防ぐ「天然の壁」として利用するためであった。そのため配所周辺の庄川本流には橋を架けることが一切許されず、住民はブドウのつるで作った太さ二尺(約60センチ)回りの大綱を張り、籠を取り付けた「籠渡し」として行き来した。数十丈の絶壁の上を揺られながら渡るのは「蜘蛛の糸を登るが如く」と恐れられるほどの難所であったという(現在は再現されたものが籠の渡しとして残っており、人の代わりに人形が川を越える)。配所では軽犯罪者は平小屋と呼ばれる建物に収容され拘束の程度は緩かったが、重犯罪者は御縮小屋と呼ばれる小屋に監禁され自由を奪われていた。御縮小屋の一部は昭和年間まで残されていたが、1963年(昭和38年)の38豪雪の際に倒壊。1965年(昭和40年)に復元されたものが富山県の有形民俗文化財に指定され、流刑小屋として地域の名所となっている[16]。加賀騒動の大槻伝蔵もこの地へ流されたが、近年の研究では、彼は藩を立て直した有能な人物(能吏)であり、反対派によって失脚させられたというのが実態であると考えられている[6]。
気象条件が厳しい五箇山では、江戸時代、年貢を米で納めることができなかった。1780年頃の宮永正運著「越の下草」によれば「水田はもとよりなくして、穀類も稗、粟、大小豆に過ぎず・・・」とあり、稲作が絶望的であったことが窺える。しかし、流刑配所となるほど険しい地形を持つ五箇山は、同時に加賀藩の軍事や財政を支える極めて重要な産業拠点であり、藩内でも類を見ない「特別地区」として扱われていた。当時、加賀藩領の新川郡には「七かね山(金山・銀山・鉛山など)」と呼ばれる鉱山資源があり、これらは年貢が免除される代わりに「運上役」という税が課せられていた。実は五箇山も慶長14年(1609年)からの一時期、これら鉱山と同じ「運上」の対象として記録されている。これは、加賀藩が金銀を蓄積する政策の一環として、五箇山の豊富な換金作物を「金銀の鉱山に匹敵する財源」として位置づけていたことを示している。「本邦第一」と称された火薬の原料である塩硝、農閑期の主要産業である和紙などが生産されたため、藩独自の厳格な農政「改作法」の適用から除外され、米ではなく金で年貢を納める「金納地」として特例的な地位を与えられていたのである[6]。
とくに五箇山の塩硝(火薬の原料)は、ただ自然のものを採掘していたわけではなく、家屋の床下の土に山草や蚕の糞などを混ぜて数年間寝かせ、バクテリアの働きを活性化させて硝酸カルシウムを生成するという、当時としては世界的に見ても例のない高度なバイオテクノロジー(培養法)で作られていた。加えて、五箇山は古くから養蚕が盛んであり、領内屈指の絹織物の産地として台頭した井波町や城端町に対する生糸の重要な供給地でもあった。さらに、腹痛や気付の特効薬として珍重された「熊胆(くまのい)」を藩が買い上げていたほか、幕末期になると、肥料や漆喰として需要が高まった「石灰」の生産が、商人が五箇山で石灰石を探し当てたことに始まるなど、新たな資源供給地としても藩の農業や産業を支える役割を担っていた。一方で、周囲を豊かな山林に囲まれながらも、加賀藩の「七木(しちぼく)の制」などの厳しい林業政策によって杉などの良木は藩の所有物として保護・制限され、住民であっても自由に木材を切り出して使うことは許されていなかった。これらの情報から、五箇山が単なる「過酷な流刑地」ではなく、「住民の生活から季節のサイクルまでが、加賀藩の軍事と財政を支えるために徹底的に管理・利用されていた巨大な産業システムであった」という側面がさらに色濃く描き出される。
住民は、これら商品作物などを井波町、城端町(現在の南砺市)の商人(判方)を介して換金し、生計を立てていた。加賀藩は原則として農民の金銀貸借を一切禁じていたが、寛文10年(1670年)に五箇山のみ改作法の例外的に、商人(判方)との取引や資金の前貸しを公認し、独自の経済ネットワークを特権として認めていた。判方は生活物資(米や日用品)や生産資金を前貸しし、特産物で回収するという役割を担っていたが、多くの場合、判方から前借を行い次年度に返済するという自転車操業的な生計を余儀なくされた。借金が返せずに土地を手放す農家が出る一方で、判方の方も貸し倒れや廃業が相次ぐなど貸借双方で厳しい環境であった。しかし、五箇山の特産物は藩にとって死活問題であったため、その救済措置も平野部の村々とは全く異なっていた。通常は凶作や災害時のみに認められる藩からの貸米や貸塩が、五箇山においてはほぼ毎年のように特例として聞き届けられ、手厚い生活保障が続けられていた[6]。それでも生活環境の改善や向上には結びつかず、1837年の天保の飢饉の際には住民の約4割が餓死している[17]。
このような独自の経済・産業を村内で取りまとめていたのが「十村(とむら)」と呼ばれる村役人である。五箇山では、下梨村の市助などが十村やそれに準ずる役職を務め、特産物の生産から金納の取りまとめまで、五箇山独自の経済や支配体制を統括する実力者として機能していた。実は、この下梨村の市助の家系は、中世からの浄土真宗の教線拡大と深く結びついている。五箇山全域の真宗布教に尽力した赤尾の道宗が永正13年(1516年)に入寂した後、五箇山の宗教と政治の中心は下梨の瑞願寺(修理亮乗賓)に移ったとされ、彼が下梨村市助の先祖であると言い伝えられている。[8]瑞願寺の由緒によれば、越中一向一揆の際に上杉方から人質として来ていた上杉謙信の末子・長尾小兵衛賢住を養子に迎え、加賀藩領となった後にその賢住が「五ヶ山市助」と改名を仰せ付けられ、五箇山代官に任ぜられたという。初代から五代目に至るまで、市助は五箇山の十村役と瑞願寺下道場役を兼ねていたとみられ[18]、中世における強固な宗教的惣組織のリーダー層が、近世においては加賀藩の特権的な村役人(代官・十村)へと移行し、五箇山の独自の社会と経済を統率していったのである。
【流刑地としての特殊な事情:武士による教育と文化の伝播】[6]
また、流刑地であったがゆえの特殊な事情として、配流されてきた「武士」の存在が挙げられる。軽犯罪で拘束の緩い平小屋に収容された武士たちによって、村の若者や子供たちは読み書きなどの手ほどきを受けることがあった。彼らは罪人となっても武士としての矜持を失っていなかった。例えば、猪谷村に遊びに来たある流刑人は、いろりのそばへ寄らず常に柱を背にして座り、その理由を「武士は平和な世にあっても乱を忘れず、いつ背後に敵ありとも限らぬ」と答えたという。こうした常に心の修練を忘れない毅然とした態度は、村人たちに強い印象を与えていた。
若者たちは農閑期の夜や休日に仲間の家(若衆宿・娘宿)に集まり、先輩が後輩に世渡りを教えたり、お互い語り合って人生教育が行われていた。特に幕末のころになると、流刑人と村人の距離はかなり接近し、村人たちに直接読み書きを教える「寺子屋の師匠」のような存在が現れた。嶋村では、若者たちが矢木清四郎(矢木のダンナ様)から寺小屋式の「矢木小屋」で字を教わり、後に初代平村長となる池田庄次郎は「あと三年もすれば大学者といわれるほど」に成長したとされる。紙や筆が貴重だった当時、字の教え方も山村ならではの工夫があった。籠渡村に流された大次郎という人物は「お膳のふたに米ぬかをまいて字を書いて教えた」とされ、また同じく籠渡村にいた孫作という人物は岡田家へ遊びに来た際、「いろりの灰に字を書いて教えた(灰書き)」というエピソードが語り継がれている。
大崩嶋の流刑人に学んだ山下弥兵衛は杉尾の初代の先生となり、田向村の水元作平は流刑人から医術を学んで明治初年に種痘医となった。籠渡村の岡田耕作や嶋村の沢山三六なども流刑人から教えを受けた人々であり、猪谷村の者は四郎右衛門という流刑人から謡曲を教わるなど、学問や医療だけでなく、高度な芸能や芸術、生活文化も伝えられた。前述の大次郎は、現在も籠渡地区だけの特技として伝わる「獅子舞の棒おどり・なぎなたおどり」を教えたほか、道場の天井絵や彫刻を自ら指図して作らせた。さらにはお盆のキリコや墓の行灯(アンドン)、年頭のしきたりまで教え、それが村の風習として定着した。他にも、衣服の縫い方の工夫(裏着て綿入れ縫う)を教えたり、小鳥を粘土で包んで蒸し焼きにして醤油を注ぐという珍しい料理法を披露して村人を驚かせた流刑人もおり、外界から隔絶された村人にとって彼らは、未知の文化をもたらす存在でもあった。
さらに、流刑人から教育を受けたことで、後に大成した村の出身者もいた。嶋村出身の丘村隆桑(隆介)は、幼少期に流刑人から資質を見込まれて字を習い、その勧めで金沢や長崎へ出て科学を学んだ。彼は金沢藩の究理学の教師となり、廃藩後は「養蚕辨論」などの専門書を著して石川県や富山県の産業振興に大きく貢献した。
また、五箇山に直接関係する著名な学者として、富田景周が挙げられる。彼は弟が五箇山へ流刑になった事件に連座して役職を免じられたが、無役となったことで結果的に「越登賀三州志」四十五巻などの大著を後世に残すことができたとされている。そもそも、五箇山へ流された武士たちの多くは、単なる凶悪犯ではなく、政争の敗北や冤罪によって失脚した有能な人物(政治犯)であった。従来は、彼らを狂暴な犯罪者とみなす俗説もあったが、実際には高度な教養を持つ知識人たちであった。その代表的な例が「加賀騒動」で祖山村へ流刑となった大槻伝蔵である。彼は後世の芝居や講談などで「主君を毒殺しようとした大悪人」として描かれてきたが、近年の研究では、その悪逆非道は虚像にすぎず、実際は藩の財政を立て直そうとした「改革派の有能な政治家(能吏)」であり、反対派の陰謀によって失脚させられた実態が定着している。地元の人々も彼の真の姿を評価し、昭和32年(1957年)には村の青年会によって「無実の証」として彼の霊を慰める慰霊碑が建立されている。彼らが配流先でも武士としての毅然とした態度を失わなかったのは、自らの無実や信念に対する強い矜持があったからに他ならない。
厳しい自然と過酷な労働環境にありながら、皮肉にもこうした政争や冤罪の犠牲となった有能な知識人たちとの交流が生まれ、それが村の教育や文化、そして優秀な人材の輩出に大きな影響を与えていたという意外な側面もあったのである。
【明治維新後の「裕福さ」を示す証拠】
このように、特殊な産業拠点として加賀藩から保護され、金銭経済のネットワークを持っていた五箇山の一部階層は、莫大な富を蓄積していた。例えば、江戸時代に岩渕村の肝煎や十村を務め、塩硝の精製(上煮屋)でトップの生産量を誇った伊右衛門家は、四代目の時代に最盛期を迎え、その持高は天保年間で220石余りに達した。これは「里(平野部)の千石持ち以上の財力」と謳われるほどの圧倒的な資産であり、兄弟や子供、孫娘にそれぞれ家を建て、大小合わせて9つの家や蔵を所有していた。その蔵の中には、換金作物である蓑や塩硝、糸、綿、雑穀などが満杯に蓄えられていたという。さらに、四代目はその豊富な資金を五箇山内のみならず砺波郡や他領にまで貸し付け、大坂や京都、金沢の商人とも広く取引を行っていた。驚くべきことに、その家財には50双を超える屏風のコレクションや、大量の仏教書・漢書・歴史書、掛軸などが含まれており、山深い村とは思えないほどの栄華を極めていたのである。[19]
こうした江戸時代からの塩硝や和紙、養蚕などの重要産業によって蓄積された富が、明治時代に入ってもなお一部の階層に桁違いの財力をもたらしていたことを如実に物語る最大の証拠が、かつて利賀谷組の十村も務めた家柄である「前川家」の豪邸再建記録である。前川家は明治27年(1894年)の火災で、元硝石製造所や硝石納屋などを含む家屋の大半(総坪数229坪)と諸道具を焼失してしまった。しかし、すぐに再建に取り掛かり、翌明治28年には村内最大規模(間口六間・奥行一四間)となる「非合掌造り」の豪邸を新築したのである。五箇山の伝統的な「合掌造り」の家屋は、村人同士の「ユイ(結)」と呼ばれる相互扶助によって、飯代と酒代のみで建てられるのが一般的であった。しかし前川家のような非合掌造りの建築ではユイに頼ることができず、大工や木挽、屋根屋など、2年間で村内外から延べ5,000人もの有給の職人を集める必要があった。
その再建費用の総額は3,000円を超えたが、当時の利賀村の歳入総予算高がわずか914円であったことを踏まえると、実に村の年間予算の3倍以上という莫大な私財を、たった一軒の家の再建に投じることができたのである。これは、江戸時代から塩硝や和紙、養蚕などの重要産業によって蓄積された富が、明治時代に入ってもなお一部の階層に桁違いの財力をもたらしていたことを如実に物語っている。
また、五箇山で富を蓄積した資産家の中には、明治維新後に平野部へ進出して大商人や実業家へと成長し、地域の経済に大きな影響を与え続けた者たちも存在した。井波町で代表的な商人(生糸商など)に成長した春田屋紋蔵や前山屋次郎兵衛(山河氏)のほか、城端町で「荒山屋」と称した野村家も五箇山の出身である。野村家は先代が呉服商として財を成し、三代目の野村理兵衛は明治30年(1897年)に野村銀行を創立して頭取に就任した。さらに明治36年には「南砺有数の高級建築」と称される豪壮な邸宅を城端に新築した。その規模と格式は圧倒的で、大正6年(1917年)に皇族である閑院宮載仁親王が視察に訪れた際には、この邸宅が宿舎として指定されるほどであり、一介の民間人の家が皇族の宿泊所に選ばれることは極めて異例であった。のちの昭和25年(1950年)にこの宏大な邸宅が解体された際には、座敷部分が東京小石川の徳川家ゆかりの格式高い名刹「伝通院」へと移築されており、その建築的価値の高さがうかがえる。野村家は城端町の税金(総戸数割)の約1割弱(60〜70戸分)をたった一軒で負担し続けるなど江戸時代から五箇山の特殊な産業によって蓄積された富を背景に、近代以降も圧倒的な財力を誇っていたのである。尚、この旧野村家土蔵3棟が今では蔵回廊と呼称され国の有形文化財として登録され現存している。五色の石垣を基礎に軒近くまで下見板張りとし、屋根裏を漆喰で塗り固めた火事に強い造で、蔵回廊裏の今町通りからみる土蔵群の外観は、城端地域の風情ある歴史的景観に寄与している。
地理
周囲を1000メートル超の山々と庄川の峡谷に囲まれた陸の孤島で、五箇山から城端(富山平野側)に行くには難所中の難所の朴峠や人喰谷を超える必要があった。このような地理的に隔絶された環境から、加賀藩の流刑場として利用された。[20]
南方には人形山という姉妹の雪絵がある山があり、五箇山のシンボルの山となっている。雪絵の姉妹に関する悲しい伝説はまんが日本昔ばなしにも取り上げられている。
五箇山の集落周辺は景観保護のために五箇山県立自然公園に指定されている。
塩硝
戦国時代から江戸時代には、塩硝(煙硝)製造の歴史がある。石山合戦(1570年〈元亀元年〉 - 1580年〈天正8年〉)の織田勢との戦いにも五箇山の塩硝が使われた。また、黒色火薬自体を製造していたとされる。日本古来から、古民家の囲炉裏の下には自然と塩硝は製造されていたが、五箇山では、自然の草(ヨモギ、しし独活、麻殻、稗殻…など)と、蚕の糞などで製造する「培養法」を使って、より多くの塩硝を製造した。16世紀後半には、前田家が加賀一帯を統治し、一向一揆が沈静化したころより、加賀藩に召し上げとして買い付けられる。加賀藩は、外様大名として100万石の経済力をもち徳川家の2分の1の石高を持っていたので、取り潰しの危機にあったが、裏では五箇山での火薬の原料を調達していたのである。しかし、この塩硝も、日本が鎖国を解いてから南米のチリからの硝石(チリ硝石)の輸入によって廃れてしまう。
茅葺屋根
五箇山の合掌造りの屋根は茅葺である。五箇山の茅葺はコガヤ(チガヤ)を材料とすることが特徴となっている。なお、現在はチガヤの採取量が全ての合掌造りに必要な分を満たせず、重要文化財や世界遺産を除く合掌造りは大茅(ススキ)で屋根が葺かれている家屋がある。昭和30年代までは「結」、集落の共同作業にて葺き替えを行っていたが、現在は富山県西部森林組合(旧五箇山森林組合)が屋根の葺き替え、茅場の管理・刈取りを行っている。
地域の特色
この地域は世界的にみても有数の豪雪地帯であり、そのような風土から傾斜の急な大きな屋根を持つ合掌造りの家屋が生まれた。現在も南砺市(旧平村)の相倉地区や同市(旧上平村)の菅沼地区には合掌造りの集落が残っており、それぞれ1970年12月4日、「越中五箇山相倉集落」「越中五箇山菅沼集落」として国の史跡に指定され、1994年には重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。
1995年12月、隣接している岐阜県大野郡白川村の白川郷(荻町地区)とともに「白川郷・五箇山の合掌造り集落」として世界遺産に登録されている。
2009年(平成21年)3月には、フランスミシュラン社発行の旅行ガイド日本編「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」にて最高峰の3つ星観光地に選ばれた。日本国内では17ヶ所が3つ星に選ばれている。また相倉集落・菅沼集落も2つ星に選ばれている。
2015年(平成27年)3月、アメリカのニュース専門放送局・CNNが発表した “Japan's 31 most beautiful places”(日本の最も美しい場所31選)[21]の一つとして選ばれた。
五箇山民謡
「五箇山は民謡の宝庫」と言われ、発祥や伝播の経緯が定かでないものが数多く存在する。「お小夜節」は伝承ではお小夜(おさよ)という遊女と関係が深いという。加賀騒動の首謀者と遊女たちが輪島に流刑になったが、お小夜は輪島の出身だったため、意味がないということで、小原(上平)に流され、歌を教えたとされる。口頭で伝承され発展してきた文化遺産であり、麦屋踊は、国の助成の措置を講ずべき無形文化財に選定された経過にある。代表的な「こきりこ節」や「麦屋節」を含む多くの民謡は、1973年(昭和48年)11月5日に「五箇山の歌と踊」として、国の選択無形民俗文化財に選択されており、多くの五箇山民謡保存団体が存在し、唄い踊り続けることによって守られている。
また、「五箇山の歌と踊」が国の選択無形民俗文化財に選択された際、保存会4団体(のちに小谷麦屋節保存会が1993年(平成5年)より参加、現在は5団体)で「越中五箇山民謡民舞保存団体連合会」が結成され、これらの保存会は小・中学校や高校で五箇山民謡を指導し、地元の富山県立南砺平高等学校の郷土芸能部が全国高等学校総合文化祭で優秀な成績をおさめるなど、大いに成果をあげている。
現在伝承されている五箇山民謡
こきりこ(こっきりこ)節・麦屋節・長麦屋節・早麦屋節・小谷麦屋節・古代神・小代神・四つ竹節・といちんさ節・お小夜節・なげ節・五箇山追分節・神楽舞・古大臣・しょっしょ節・草島節・輪島節など
五箇山民謡保存団体
※印は「越中五箇山民謡民舞保存団体連合会」加盟団体
脚注
注釈
出典
- ↑ 浦辻 2020, p. 50.
- ↑ 浦辻 2020, p. 51-52.
- ↑ 浦辻 2020, p. 51.
- ↑ 浦辻 2020, p. 52-53.
- ↑ 奥田 2024, pp. 26–27.
- 1 2 3 4 5 『越中五箇山 平村史 上巻(5.加賀藩と五ヶ山)』。
- ↑ 平村史編纂委員会 編『越中五箇山平村史 上巻』平村、1985年、107-110頁。
- 1 2 3 『越中五箇山 平村史 上巻(3.中世の五ヶ山)』。
- ↑ 平村史編纂委員会 編『越中五箇山平村史 上巻』平村、1985年、114頁。
- 1 2 『越中五箇山 平村史 上巻(3.中世の五ヶ山)』。
- ↑ “白山宮本殿”. 南砺市文化芸術アーカイブズ. 2024年9月27日閲覧。
- ↑ 南砺市教育委員会 編著『南砺の城と人-戦国の寺・城・いくさ- 山科本願寺から五箇山・瑞泉寺へ 山岳古道と砦跡 蓮如と赤尾道宗 : 南砺市立井波歴史民俗資料館118回企画展 : 見学会・シンポジウム(2016年<平成18年>6月3日・4日)資料集』 2008年
- ↑ 越中真宗史編纂会 編『綽如上人伝』越中真宗史編纂会高岡事務所、1943年、123頁。
- ↑ 『利賀村史1-自然・原始・古代・中世-(第三章 真宗と五ヶ山(中世))』。
- ↑ 『利賀村史1-自然・原始・古代・中世-(第三章 真宗と五ヶ山(中世))』。
- ↑ 流刑小屋 - 重い罪人は、住民と語ることもできなかった南砺市ふるさとミュージアム(2019年12月14日閲覧)
- ↑ (富山県)上平村役場『上平村史 』上平村、1982年、p71,p96頁。
- ↑ 『越中五箇山 平村史 上巻(4.真宗と道場)』。
- ↑ 『利賀村史2-近世-(第四章 利賀谷組の村々-藩政下の姿-)』。
- ↑ 雪山の絶景。日本で唯一、流刑小屋が現存する世界遺産「五箇山」坂本正敬
- ↑ “Japan's 31 most beautiful places”. CNN. 2017年1月9日閲覧。
- ↑ 『越中五箇山麦屋節保存会 百周年記念誌』(越中五箇山麦屋節保存会)2009年(平成21年)10月31日発行 127P
参考文献
- 浦辻, 一成「五箇山と利賀の地名の由来」『『地名と風土』第14号』日本地名研究所、2020年、49-56頁。
- 利賀村史編纂委員会 編『利賀村史1 自然・原始・古代・中世』利賀村、2004年。
- 利賀村史編纂委員会 編『利賀村史2 近世』利賀村、1999年。
- 利賀村史編纂委員会 編『利賀村史3 近・現代』利賀村、2004年。
- 平村史編纂委員会 編『越中五箇山平村史 上巻』平村、1985年。
- 平村史編纂委員会 編『越中五箇山平村史 下巻』平村、1983年。
- 上平村役場 編『上平村誌』上平村、1982年。
関連項目
外部リンク
- 世界遺産五箇山 観光情報サイト
- 五箇山合掌の里
- タカンボースキー場
- 五箇山・白川郷の合掌造り - ウェイバックマシン(2001年7月12日アーカイブ分)
- 国指定文化財等データベース
- 全国遺跡報告総覧
固有名詞の分類
- 五箇山のページへのリンク