ヴァシリコ (ロストフ公)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ヴァシリコ (ロストフ公)の意味・解説 

ヴァシリコ (ロストフ公)

(Vasilko Konstantinovich から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/27 08:49 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
ヴァシリコ・コンスタンチノヴィチ
Василько Константинович
ロストフ公
ヴァシリコ・コンスタンチノヴィチの死
在位 1218年 - 1238年

出生 (1209-12-07) 1209年12月7日
死去 (1238-03-04) 1238年3月4日(28歳没)
配偶者 マリヤ・ミハイロヴナ
子女 ボリス
グレプ
家名 リューリク家
父親 ウラジーミル大公コンスタンチン
母親 アガフィヤ・ムスチスラヴナ
テンプレートを表示

ヴァシリコ・コンスタンチノヴィチВасилько Константинович, 1209年12月7日 - 1238年3月4日)は、ロストフ公(在位:1218年 - 1238年)。ウラジーミル大公コンスタンチンの長男。

略歴

1209年に生まれる。

1218年の父の死に伴い、ロストフ公位(およびコストロマ、北部ガーリチ地方)を相続する。

1220年にウラジーミル大公ユーリー2世と共にヴォルガ・ブルガールに遠征し、勝利を収める。

1223年カルカ川の戦いに参加するために準備を進めていたが、到着までに南ルーシ諸公が討ち破られ、北方に引き返した。

1226年にはユーリー大公に率いられて、チェルニゴフミハイル公の支援に駆けつけた。

1227年にはミハイル公の娘マリヤを妃として迎える。

1228年にはモルドヴァ遠征を行う。

1238年にモンゴル軍がルーシの北方に攻め寄せた際に、大公ユーリー2世と共に軍を集めるために北方に向かうが、シチ川の戦いでモンゴルの急襲に遭い戦死した。ロシア正教会聖人とされる。

家族

公妃マリヤとの間には、ロストフ公国を継いだボリスと、ベロオーゼロ公国を継いだグレプを授かった。

先代:
コンスタンチン
ロストフ公
1218年 - 1238年
次代:
ボリス



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ヴァシリコ (ロストフ公)」の関連用語

ヴァシリコ (ロストフ公)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ヴァシリコ (ロストフ公)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのヴァシリコ (ロストフ公) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS