比叡山焼き討ち (1571年)
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比叡山焼き討ち(ひえいざんやきうち)は、元亀2年9月12日(1571年9月30日)に近江国滋賀郡(現在の滋賀県大津市)の比叡山延暦寺を、織田信長の軍が攻めた戦い。この戦いで信長軍は延暦寺の伽藍を焼き払い、僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねたと言われている。一方、近年の発掘調査から、施設の多くはこれ以前に廃絶していた可能性が指摘されている(後述)。
注釈
- ^ ただし、神田千里はこれを比叡山討伐を正当化するための論理であるとしている[8]。『信長公記』でも焼き討ちの理由は比叡山が浅井、朝倉方についたのでその憤りを散ぜんがためと記しており、「年来の御胸朦(わだかまり)を散ぜられおわんぬ」としている。すなわち焼き討ちは敵対した者に対する攻撃であったというのが本質である[9]。『信長公記』の記す「天道のおそれをも顧みず、淫乱、魚鳥を食し」云々の下りは、「事実ではあるが」という指摘があるが、『信長公記』は信長の死後に太田牛一によって書かれた創作であるため信長が生前にこのような指摘をしていたかについては留意が必要である。
- ^ 「現代の歴史家もまた、古代的権威の克服、宗教的束縛からの解放としてこの行為を高く評価するのに至ったのである」[10]
出典
- ^ 『戦国合戦大辞典』
- ^ 藤井譲治『天皇と天下人』
- ^ a b c 兼康保明「織田信長比叡山焼打ちの考古学的再検討」『滋賀考古学論叢』第1集、1981年。
- ^ 谷口克広『信長の天下布武への道 (戦争の日本史 13 )』。2006年発行。ISBN 978-4642063234
- ^ a b 林屋辰三郎 『日本の歴史 天下一統』
- ^ 奥田尚「小瀬甫庵『信長記』解題にかえて」- 追手門大学図書館
- ^ 『織田信長総合辞典』
- ^ 神田千里『一向一揆と石山合戦』吉川弘文館、2007年。
- ^ 池上裕子『織豊政権と江戸幕府』講談社〈日本の歴史15〉、2002年、41頁。
- ^ 林屋辰三郎 『天下一統』
- ^ 『京都・近江戦国時代をゆく』36頁
- ^ a b “人名事典 小林隆彰”. PHP研究所 (2015年). 2022年12月14日閲覧。
- ^ a b c d “織田信長と比叡山延暦寺 420年の恩讐を越えた和解”. NEWSポストセブン(週刊ポスト). 小学館 (2016年9月16日). 2022年12月14日閲覧。
- 1 比叡山焼き討ち (1571年)とは
- 2 比叡山焼き討ち (1571年)の概要
- 3 開戦までの経緯
- 4 焼き討ちの経過
- 5 焼き討ち後
- 6 延暦寺の発掘調査
- 7 脚注
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