ムハンマド1世 (後ウマイヤ朝)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ムハンマド1世 (後ウマイヤ朝)の意味・解説 

ムハンマド1世 (後ウマイヤ朝)

(Muhammad I of Córdoba から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/12/23 21:18 UTC 版)

ムハンマド1世
アラビア語: محمد بن عبد الرحمن الأوسط
後ウマイヤ朝アミール
ムハンマド1世時代に鋳造されたディルハム銀貨
在位 852年 - 886年

全名 ムハンマド・イブン・アブド・アッラフマーン・アル=アウサット
出生 822年
後ウマイヤ朝コルドバ
死去 886年
後ウマイヤ朝コルドバ
子女 アル・ムンディル
アブドゥッラー
家名 ウマイヤ家
王朝 後ウマイヤ朝
父親 アブド・アッラフマーン2世
母親 ナーティス
宗教 イスラム教スンナ派
テンプレートを表示

ムハンマド1世アラビア語: محمد بن عبد الرحمن الأوسط‎, 822年 - 886年)は、後ウマイヤ朝の第5代アミール(在位:852年 - 886年)。

生涯

ムハンマドはコルドバで生まれた。その治世には、ムラディ(イベリア出身のイスラム教徒)とモサラベ(キリスト教徒)のいくつかの反乱と分離運動が起こった。

ムーサー・ブン・ムーサーに率いられたムラディのカシー家スペイン語版ナバラ王国イニゴ家と同盟を結んで反乱を起こし、(ムハンマド1世とアストゥリアスオルドーニョ1世に続く)「スペインの3番目の王」と自ら名乗った。反乱を起こしたウマイヤ朝の将校イブン・マルワーン・アルジッリーキー英語版メリダに戻り、ムハンマド1世に対しても反乱を起こした。ムハンマド1世は反乱を鎮圧することができず、875年にイブン・マルワーンに対し自由都市(現在のエストレマドゥーラ州バダホス)を建設することを許可した。最終的にトレドの町はオルドーニョ1世の支援を受け反乱を起こしたが、グアダラセテの戦いにおいて敗北した。

ムハンマド1世は西フランク王であるシャルル禿頭王と外交交渉を行い、865年にラクダを送った。

880年、西ゴートあるいはアフリカ出身のウマル・ブン・ハフスーンも反乱を起こし、928年にアブド・アッラフマーン3世のもとで鎮圧された。

ムハンマド1世は886年に死去し、息子ムンジルが跡を継いだ。

参考文献

  • Altamira, Rafael (1999). “Il califfato occidentale”. Storia del mondo medievale. II. pp. 477–515 
  • Calmet, Augustin, 1672-1757. (1767). Histoire Universelle, Sacrée Et Profane. Chez Jean Renauld Doulssecker. OCLC 314190685 



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  ムハンマド1世 (後ウマイヤ朝)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ムハンマド1世 (後ウマイヤ朝)」の関連用語

ムハンマド1世 (後ウマイヤ朝)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ムハンマド1世 (後ウマイヤ朝)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのムハンマド1世 (後ウマイヤ朝) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS