アグハージ・ジュラとは? わかりやすく解説

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アグハージ・ジュラ

(Gyula Aggházy から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/30 00:00 UTC 版)

アグハージ・ジュラ
Aggházy Gyula
生誕 1850年3月20日
ハンガリー王国、ドンボーヴァール(Dombóvár)
死没 1919年5月23日
オーストリア=ハンガリー帝国ブダペスト
この項目では、ハンガリー語圏の慣習に従い、名前を姓名順で表記していますが、インド・ヨーロッパ語族風にジュラ・アグハージと表記することもあります。(Template:ハンガリー人の姓名

アグハージ・ジュラ(Aggházy Gyula、1850年3月20日 - 1919年5月23日)はハンガリーの画家である。風俗画や風景画を描いた。ブダペストの美術学校(Magyar Királyi Mintarajztanoda és Rajztanárképezde、後のハンガリー芸術大学)の教授を務めた。

略歴

ハンガリー、トルナ県のドンボーヴァール(Dombóvár)で生まれた。音楽愛好家の家で、弟に有名なピアニスト、作曲家になったアグハージ・カーロイ(Aggházy Károly: 1855-1918)がいた。 アグハージ・ジュラも音楽を学び、ブダペストの国立劇場のオーケストラでヴァイオリンを演奏した[1] 。音楽家をしながら絵の修行も続け、ブダペストの画家、ウーイハージ・フェレンツ(Újházy Ferenc: 1827-1921)に学んだ[2] 。本格的に絵を学ぶことにして、ウィーンに移り、夜はバイオリニストの仕事をしながらウィーン美術アカデミーで学んだ[1]。1872年に奨学金を得てミュンヘン美術院に移り、アレクサンダー・フォン・ヴァーグナーに学んだ。1874年からパリで活動していたハンガリー人画家、ムンカーチ・ミハーイ(1844-1900)のもとで修行した[2]

1876年にハンガリーに帰国し、多くのハンガリーの芸術家が集まっていたソルノクの芸術家村でも活動し、1884年にはブダペスト近郊の芸術家村(Epreskert Art Colony)で活動した。1887年から工芸学校 (Iparművészeti Főiskola)で教え始め、1897年から後にハンガリー芸術大学になる美術学校で教えた[2]

ハンガリーの人々の日常を描いた作品で人気があり、ソルノクやバラトン湖などの風景も描いた

作品

参考文献

  1. ^ a b Gizella Rühl, « Aggházy Gyula », sur TolnaArt
  2. ^ a b c Péter Kozák , « Aggházy Gyula », sur Névpont, 2013



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