威穆帝とは? わかりやすく解説

威穆帝

(黎濬 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 05:33 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
威穆帝 黎誼
後黎朝
第8代皇帝
王朝 後黎朝
在位期間 1505年 - 1510年
姓・諱 黎誼(黎濬)
諡号 威穆皇帝
生年 洪徳19年5月5日
1488年6月14日
没年 端慶5年12月1日
1510年1月10日
憲宗
昭仁皇后
陵墓 安陵
元号 端慶 : 1505年 - 1509年

威穆帝(いぼくてい、ベトナム語: Uy Mục Đế)は、後黎朝大越の第8代皇帝(在位:1505年 - 1510年)。名は黎 誼(れい ぎ、ベトナム語: Lê Nghị)または黎 濬(れい しゅん、ベトナム語: Lê Tuấn)。憲宗の次男。

生涯

弟の粛宗の死後即位したが、酒色に溺れて暴政をほしいままにした。母の昭仁皇后の兄弟である阮種・阮伯勝を重用して自身の即位に反対した祖母の徽嘉皇太后や朝臣・宗族を多く殺した。から冊封使として訪れた許天錫は威穆帝を「鬼王」と評した。

威穆帝の残忍な統治は多くの人心に反感を引き起こした。威穆帝に投獄されていた従弟の簡修公黎聖宗の子の建王黎鑌の子)は獄吏に賄賂を渡して脱獄、清化に逃走し、そこで兵を挙げた。端慶5年(1509年)11月に反乱軍は都昇龍に迫ると、威穆帝は逃亡した。その後黎に捕まり鴆毒を飲んで死んだとも(『大越史記全書』)、逃亡中に殺されたとも言われている。威穆帝に一族を殺されていた黎は大砲でその屍を粉々にし、愍厲公に落とした。

清化出身の軍人の支持を得た黎(襄翼帝)が代わって即位した。

外部リンク

先代:
粛宗
後黎朝の第8代皇帝
1505年 - 1510年
次代:
襄翼帝




固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「威穆帝」の関連用語

威穆帝のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



威穆帝のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの威穆帝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS