香椎宮託宣と仲哀天皇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 14:15 UTC 版)
仲哀8(199)年9月条に仲哀天皇は神功皇后とともに熊襲討伐のため儺県(ナガアガタ、現在の福岡博多)の橿日宮(現・香椎宮)を訪れる。そこで、神懸りした神功皇后から神のお告げを受けた。託宣では熊襲よりも宝のある新羅を攻めよとされた。しかし、仲哀天皇は、これを信じず、高い丘にのぼり、海を見ても、そんな国は見えないとして、神になぜ欺くのかといった。神はなぜそのように誹るのか、汝はその国を得ることはできないが、汝の子がそれを成すだろうと述べた。仲哀天皇は託宣を聞かずに熊襲征伐を行うが、敗北し、撤退した。さらに翌200年2月、筑紫の橿日宮で崩じた。皇后らはこれを「神の託宣を聞かなかったためだ」と嘆いた。遺体は武内宿禰により海路穴門を通って豊浦宮で殯された。『天書紀』では熊襲の矢が当たったと記されている。
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