韋抗とは? わかりやすく解説

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韋抗

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/23 08:32 UTC 版)

韋 抗(い こう、生年不詳 - 726年)は、唐代官僚本貫京兆府万年県[1][2]

経歴

司農寺丞の韋暢(武陽県侯韋琨の子で、韋孝寛の子の韋津の孫)の子にあたる。弱冠にして明経に挙げられ、吏部郎中に累進し、清廉謹直で知られた。景雲2年(711年)、永昌県令となり、厳刑を用いずに政令は守られた。ほどなく右台御史中丞として召還されると、永昌県の民衆や官吏たちは宮殿を訪れて、韋抗の留任を求めたが許可されず、街道に石碑を建てて、その善政を紀念した。開元3年(715年)、韋抗は太子左庶子から益州長史として出向した。開元4年(716年)、入朝して黄門侍郎となった[3][4]

開元8年(720年)、黄河の褶曲部で北方民族の康待賓が反乱を起こすと、韋抗は勅命を受けて節を持ち慰撫にあたった。韋抗はもともと軍事的な計略を持たず、敵にあなどられていた。韋抗はぐずぐずして進もうとせず、馬から落ちて病と称し、反乱者のところまでたどり着くことなく帰還した。まもなく本官のまま鴻臚寺卿を検校し、王晙に代わって御史大夫となり、按察京畿を兼ねた。ときに韋抗の弟の韋拯が万年県令となり、兄弟そろって郷土を管轄したので、当時の人はこれを光栄とした。ほどなく韋抗は御史に不適任として、安州都督に出され、蒲州刺史に転じた。開元11年(723年)、入朝して大理寺卿となり、この年のうちに陸象先に代わって刑部尚書となった。開元13年(725年)、さらに吏部選事を分掌した。開元14年(726年)、死去した。太子少傅の位を追贈された。は貞といった[3][4]

脚注

  1. ^ 旧唐書 1975, p. 2955.
  2. ^ 新唐書 1975, p. 4349.
  3. ^ a b 旧唐書 1975, p. 2963.
  4. ^ a b 新唐書 1975, p. 4360.

伝記資料

参考文献




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