韋夏卿
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韋 夏卿(い かけい、743年 - 806年)は、唐代の官僚。字は雲客[1][2]。本貫は京兆府万年県[2]。
経歴
検校都官郎中・嶺南節度行軍司馬の韋迢の子として生まれた。苦学して、大暦年間に制挙に応じて及第し、高陵県主簿に任じられた。刑部員外郎に累進した。ときに長らく旱魃と蝗害が続いていたため、詔により郎官の中から畿内の県令を選抜することになり、夏卿は奉天県令に転出した。考課で最も優秀だったことから、長安県令となった。吏部員外郎に転じ、吏部郎中に進み、給事中に任じられた[1][2]。貞元8年(792年)、常州刺史に出向した[3]。夏卿は儒教を尊び、経学に通じた士を礼遇して招いた。ときに処士の竇群が州境に寓居していたことから、夏卿はその著した史論を取り上げて、竇群を朝廷に推薦し、門人とした。蘇州刺史に転じた。貞元16年(800年)、徐泗濠節度使の張建封の病が重くなると、夏卿は徐州行軍司馬として派遣された。まもなく張建封が死去すると、夏卿は代わって徐泗濠節度使に任じられた。ところが夏卿が着任しないうちに、張建封の子の張愔が徐州の軍に立てられて留後となり、朝廷に追認された。そこで夏卿は長安に召還されて、吏部侍郎となった[1][2]。貞元17年(801年)、京兆尹となった[4]。太子賓客に転じた。貞元19年(803年)、東都留守・東都畿汝州都防禦使となった[5]。永貞元年(805年)、太子少保に転じた[6]。元和元年(806年)1月丁丑、死去した[7]。享年は64。尚書左僕射の位を追贈された。諡は献といった[8][9]。
脚注
伝記資料
参考文献
- 『旧唐書』中華書局、1975年。ISBN 7-101-00319-2。
- 『新唐書』中華書局、1975年。 ISBN 7-101-00320-6。
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