阿部企業硬式野球部とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 阿部企業硬式野球部の意味・解説 

阿部企業硬式野球部

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/01/07 01:05 UTC 版)

阿部企業硬式野球部
チーム名(通称) 阿部企業
加盟団体 日本野球連盟
加盟区分 企業チーム
創部 1970年
廃部 1999年
チーム名の遍歴
  • 阿部企業
  • 阿部企業アスピアクラブ
本拠地自治体
  • 兵庫県神戸市
  • 都市対抗野球大会
    出場回数 1回
    最高成績 ベスト8
    社会人野球日本選手権大会
    出場回数 1回
    最高成績 準優勝
    全日本クラブ野球選手権大会
    出場回数 ※出場資格なし

    阿部企業硬式野球部(あべきぎょうこうしきやきゅうぶ)は、兵庫県神戸市に本拠地を持ち、日本野球連盟に所属していた社会人野球チーム。

    概要

    1970年11月に社会人野球連盟加入。1970年代後半は休部状態だったが、1982年より本格的に活動を再開し、1986年第57回都市対抗野球大会に初出場。台湾出身の陽介仁(陽岱鋼の叔父)、補強選手の岡本透投手らの活躍で川崎市三菱自動車川崎郡山市ヨークベニマルに勝ち8強入り。準々決勝で横浜市日本石油に敗れた。当時は馬淵史郎(当時は中本姓)が監督、宮岡清治がコーチを務めていた[1]

    同年、第13回社会人野球日本選手権大会に初出場。三菱自動車水島三菱自動車京都川崎製鉄神戸に勝ち決勝進出した。決勝でNTT東海に敗れた[2]

    1990年プロ野球ドラフト会議柴田佳主也近鉄バファローズから4位指名を受けて入団。以降は移籍組を含めて毎年のように選手が入れ替わっていた。

    1996年、「デ・パルマの英雄」と呼ばれたルルデス・グリエルが入団。グリエルは1998年にいすゞ自動車へ移籍した。

    1999年限りでチームが休部となり、翌年は阿部企業アスピアクラブとなるが間もなく活動休止。また、経営者が同時期に関西野球専門学校(アスピア学園)を立ち上げて同じ兵庫県に加盟したが後に休部、閉校となった。

    逸話

    • 馬淵史郎が監督だった当時は専用グラウンドがなく、選手は夜勤後の午前中に練習していた。監督である馬淵も深夜の工事現場で警備の仕事をしていたという[3]
    • 柴田佳主也は阿部企業に所属していた当時、社業で警備員として働いていた。工事現場での警備の際にイノシシに襲われ、すんでのところで襲撃をかわし助かった。

    沿革

    主要大会の最高成績

    主な在籍選手

    主な外国人選手

    主な歴代監督

    主なコーチ

    脚注

    関連項目




    英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
    英語⇒日本語日本語⇒英語
      
    •  阿部企業硬式野球部のページへのリンク

    辞書ショートカット

    すべての辞書の索引

    「阿部企業硬式野球部」の関連用語

    阿部企業硬式野球部のお隣キーワード
    検索ランキング

       

    英語⇒日本語
    日本語⇒英語
       



    阿部企業硬式野球部のページの著作権
    Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

       
    ウィキペディアウィキペディア
    All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
    この記事は、ウィキペディアの阿部企業硬式野球部 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

    ©2025 GRAS Group, Inc.RSS