野村徳七 (初代)とは? わかりやすく解説

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野村徳七 (初代)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/12 09:34 UTC 版)

初代野村 徳七(のむら とくしち、1850年5月26日嘉永3年4月15日) - 1907年明治40年)9月30日)は大阪の両替商。野村徳七 (二代)野村元五郎の父。

生涯

1850年(嘉永3年)4月15日、河内国渋川郡久宝寺村(現在の大阪府八尾市久宝寺)に生まれる。幼名は徳松。11歳から大阪屋弥兵衛の大弥両替店に丁稚奉公する。1871年(明治4年)2月、大阪屋弥兵衛の養子となるが、8月に主人の弥兵衛が他界し、さらに翌1872年(明治5年)8月に、弥兵衛の妻さくも他界した。明治維新後の1869年(明治2年)には、東京、大阪に為替会社が設立され、1872年(明治5年)の「国立銀行条例」によって国立銀行が設立され、幣制の改革も行われて、両替店の機能は次第に低下した。 大弥の両替店も例外ではなく未亡人の死後、後継当主の弥太郎は、ついに店を閉鎖することになる。大弥両替店は没落したが、初代徳七は最後まで残り、同じ店で働いていた山内多幾(後の初代徳七夫人)とともに、力をあわせて店の整理に尽力した。

徳七は、1872年(明治5年)に大弥両替店から独立して、新たに野村の姓を名乗って分家するとともに、大弥両替店に奉公していた山内多幾と結婚した。多幾は、越前勝山藩の山内村右衛門と後妻との間に生まれた。店は大弥両替店の一隅を借りたもので、まず銭両替商として小銭の両替商売をはじめた。 こうして、両替商「野村商店」は、1872年(明治5年)2月、百円の資本で誕生し、野村財閥の事業の出発点となった。徳七の独立後の商売は順調に発展した。1878年(明治11年)、徳七は、大弥両替店の一隅から出て、大阪の農人橋詰町九番地に住宅兼店舗を構えた。徳七は1879年(明治12年)、取引所仲買人となったが、翌1880年(明治13年)4月15日に廃業した。明治10年代の野村家の収入は、銭両替の手数料と、日本銀行大阪支店の古金銀鑑定役による報酬であった。これによって野村家は年々資産を増やしていった。そして1874年(明治7年)10月27日に長女キク、1878年(明治11年)8月7日に長男信之助、1880年(明治13年)11月23日には二男実三郎、1883年(明治16年)10月には三男徳四郎(生後11ヶ月で死亡)、1885年(明治18年)9月17日に二女タニ、1887年(明治20年)10月18日には四男の元五郎が誕生し、家族も増えていった。

1878年(明治11年)8月に大阪株式取引所が設立されたが、当時上場されたものは新旧公債、秩禄公債、起業公債などだった。 翌1879年(明治12年)になって、東西両取引所株、堂島米会議所株が、株式としてはじめて上場され、その後、民間企業の株式、各種の新公債が上場された。1892年(明治25年)ごろには、鉄道6銘柄、船舶2銘柄、紡績・織物10銘柄、その他5銘柄が上場され、公債の取引は、新旧の公債、整理公債、海軍公債の4つとなった。この頃、株式および公債の銘柄数が増えて取引高が増大した。それとともに、両替店で両替のかたわら、株式、公債の売買、や、それを専業に扱う店がしだいに増えてきた。 徳七も、長男信之助(二代目徳七)の助言で、まず公債の取り扱いを手掛け、1897年(明治30年)ごろには現株のブローカーと定期の取り次ぎをも行うようになった。




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